岡家
浅口郡西阿知村




清水彌右衛門貞直家の縁合にこの家のことが書いてあります。岡家の墓地は浅口郡西阿知村(倉敷市西阿知)の浄土宗極楽寺にありますが、そのたくさんの墓碑の中に彌右衛門貞直夫婦とその子文太夫貞義の墓碑もあります。

代々、助左衛門を襲名して庄屋を勤めたようです。

清水(当時間野姓)家に婿養子に入った(石原)又之助の叔母(宝永五年歿)が岡助左衛門に嫁いでいますが、この人は喜宗の母かと思います。また、三田村の守屋忠左衛門直宗の妻才子(元禄十三年歿)が岡助左衛門娘とありますが、芳成の娘ではないかと思います。
更に、清水家に遺された福田新田之過去帳(=石原家過去帳)には石原文右衛門貞義の妻(宝永六年歿年七十)と、間野文左衛門の妻(宝永元年歿)が共に岡娘と付記があります。石原文右衛門妻のところには「西阿知岡氏」と書いてあります。どうやら、この二人も姉妹で、芳成の娘くらいになるのかも知れません。

石原又之助の叔母とその夫の夫婦墓は岡家の墓碑並びにありますが、これより左には丸川家の墓碑になっています。同じ一画に両家の墓碑が境界線なく並んでいることから、両家の当時の親戚付き合いの深さが解ります。極楽寺の正門横には丸川家初代夫婦の巨大な墓碑が建っていますが、その南には岡家先祖の夫婦墓、東側の本堂横には松井家の先祖墓と記念碑が並べられています。

助左衛門芳成――+――助左衛門成章――五郎左衛門――九郎左衛門喜宗――長右衛門治喜――庄右衛門芳郷――――+
        |  延宝6            享保18     寛保3     天明3       |
        |          室神原氏?  室                室         |
        +――才子                                        |
        |  守屋直宗妻                                     |
        |                                            |
        +――女                                         |
        |  石原貞義妻                                     |
        |                                            |
        +――女                                         |
           間野文左衛門妻                                   |
                                                     |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――平三郎芳忠――+――貞八郎芳孝
   文政1    |  文政12
   室氏    |
   室今村氏   +――助左衛門芳貞――+――富太郎芳薫――+――貞太郎芳徳――+――萬亀雄   ==男
          |  天保9     |  大正1    |  昭和8    |  昭和49    武田氏
          |  室山名氏    |  室白神氏   |  室内田氏   |  室野上氏
          |          |         |         |
          +――        +――禎策     +――逸造     +――鶴子
          |          |  山名家嗣   |  星島家嗣      武田幸太郎妻
          |          |         |
          +――        +――美祢     +――稔
          |             武田秀治妻  |  山名家嗣
          |                    |
          +――                  +――政子
          |                       條三郎妻
          |
          +――芳左衛門宗辰
             近藤家嗣

芳忠の妻は杉東伯の次女とあり、これは笹井十次郎幸英妻の妹になるようです。
貞太郎は明治十四年、西阿知、同新田二村の戸長、同二十二年八月に町村制が施行されると西阿知名誉村長に任命されています。花筵、養蚕を奨励して村の産業振興をはかり、浅口郡会議員・高梁川東西用水組合議員などを勤めて、高梁川の改修工事には大いに尽力しています。妻は児島郡尾原村の内田重郎長女賀代で、四人の男子と一人の女子をもうけますが、次々に早世して四男の萬亀雄が相続しています。萬亀雄にも子がなかったために甥が嗣いでいます。


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