小川(鞭木)家
児島郡粒江村鞭木
小川家は清和源氏の末流、もとは塩川姓で、二十四世の孫塩川右衛門宗治の曾孫満遠の代に小川と改姓しています。
戦国時代に尼子氏、続いて毛利家に仕えましたが、天正十年の高松城落城後に帰農しています。
享保十七(1732)年、備前藩主池田継政が児島へ狩りに出かけたときに小川満昭宅に立ち寄り、居住している地名「鞭木」を姓として名乗るように云われ、鞭木と改姓しています。鞭木という地名は、源平藤戸合戦の頃に馬の尻を叩く鞭を作るのに利用したという木が生えていた場所の名です。
鞭木家には、延享二(1745)年、継政の母栄光院が天城屋敷に来たときのついでに遊びに寄ったという記事もあり、この時は生坂の(間野)五三兵衛妻浅野も同席していました。
塩川 小川改姓 右衛門宗治――+――兵衛重昌――九郎右衛門重遠――+――九郎右衛門満遠――+――藤左衛門重倫 ――八郎左衛門倫伯――+ 大栄7 | 永禄10 元和3 | 万治2 | 元禄7 宝永7 | 室 | 室 室内藤氏 | 室窪津氏 | 室 室 | | | | | +――親昌 +――嘉右衛門 +==八左衛門 | | 阿曽沼氏 | | 室満遠三女 | | 笹沖村分家 | | | +――六左衛門 | | 粒浦村分家 | | | +――女 | | 窪津又八郎妻 | | | +――女 | | 尾崎盛永妻 | | | +――女 | 渡邊九郎右衛門妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | 鞭木改姓 +――八郎左衛門満春――+――又一郎満昭 ――八郎左衛門満喬――+――藤左衛門末満 享保14 | 寛延3 宝暦7 | 宝暦12 室間野氏 | 室安延氏 室板野氏 | | 室宮家氏 +――八郎左衛門重門――+――又太郎照朗 +――登右衛門 天明4 | 天明7 | 中西家へ 室 | | +――栄左衛門栄寿――+ +――辰右衛門全久 天保7 | | 宝暦7 室 | | 室 室内藤氏 | | 室 | | | +――男 | 小倉家嗣? | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | +――藤九郎重信――森太重則――+――虎太郎重嗣――+――孝史重昌――+――千尋 嘉永1 明治15 | 大正5 | 昭和28 | 室 室 室 | 室金谷氏 | 室守屋氏 | | 室後藤氏 | +――仲世 | +――志郎 昭和19 +――隆次郎 中原家嗣 綾部家嗣
九郎右衛門(又一郎、九郎太夫、光吉)重遠の妻千代は内藤太良次女です。
九郎右衛門満遠(光明)は粒江の西明院を建立、妻琴は窪津又八郎次女です。満遠が活躍した頃は、戦の時代が終わって各地で新田開発が行われました。窪屋郡笹沖村、児島郡粒浦村もこの頃に干拓が行われ、それぞれ分家を立てています。粒浦新田は、用水の確保で川上の東阿知(生坂)からクレームを付けられて苦労しています。八ヶ郷用水の元締役を勤めた窪津家、生坂の大庄屋間野家との縁組みは、こうした背景を踏まえた政略結婚であったのかも知れません。
重倫夫婦はそれぞれ、元禄七(1694)年、同九年に九十、九十二歳という高齢で亡くなっています。元禄七年の正月、子の倫伯が書いたものが倉敷市史に紹介されています。
児島郡粒江村の内鞭木の道圓妙圓夫婦共
当年九十歳に罷り成り申し候
1、子五人の内 男二人、女三人
1、孫二十六人の内 男九人、女十七人
1、彦孫六十五人の内 男三十七人、女二十八人
1、鶴孫二十人の内 男八人、女十二人
人数合わせて百十六人、申の春に書上申し候に、一人彦孫、五人鶴孫増し申し候
(註)申=元禄五年壬申
孫に曾孫(ひまご)に玄孫(やしゃご)、併せて百二十二人、たいへん賑やかです。
百歳のふたご姉妹、金さん、銀さんにあやかりたい、どんな風にしたらあんなに長生きできるのか、世間の関心が集まりました。元禄の昔も、長寿の家系は領主が中心になって調べたり、長寿者にはご褒美が与えられてたいせつにされました。今も昔も変わらないのです。
いろんな家の歴史を調べていてわかるのは、栄える家にはたいてい長寿者が出ているということです。家を隆盛に持っていった当主がバリバリ仕事をして、孝行息子がそれを補佐する、孫もまあまあの出来、こういうのが家が栄える源です。経済的に恵まれているから良いものを食べて長生きするのだとも考えられますが、遺伝的背景も確かにあるようです。いくら頭脳明晰な家系でも短命な人が続くとうまく行きません。
藤左衛門重倫姉妹の行方はかなり判っています。窪屋郡白楽市村の渡邊九郎右衛門、同郡子位庄村の窪津又八郎妻、同郡加須山村の尾崎勝左衛門に嫁いでいます。満遠三女には窪屋郡浜村の吉見屋阿曽沼四郎右衛門家の子を婿養子を迎えて笹沖村に分家させています。粒浦の分家もこの代のようです。
八郎左衛門(弥次郎、佐兵衛)満春の妻は窪屋郡生坂村間野秀明娘です。倉敷市史に「秀明・・・此人女子多ク倉敷水沢氏児島鞭木小川氏備前大庄屋守屋忠兵衛等皆間野家ノ出ナリ」とあります。
宝暦十三年に小倉四郎右衛門(宗右衛門)知*(*=言+甚)が藤戸寺に建立した宝篋印塔に、満春夫妻、辰右衛門全久とその初妻(享保十五年歿 後妻は安永六年歿)、満昭(妻は安永二年歿)、中西登右衛門、満喬とその初妻(寛保二年歿 後妻は寛政七年歿)、末満、以上九人もの鞭木家の人が刻まれています。知*(*=言+甚)は明和七年に、その妻は宝暦十三年に亡くなっていて、何れも享年は不明です。これだけ多くの人が記されていることから、知*(*=言+甚)は満昭の末弟くらいになり、小倉家に養子として入った人ではないかと思います。
満喬の妻志茂は板野氏、後妻風は尊龍院宮家から来ています。
藤左衛門(金助)末満は板野氏の子、八郎左衛門重門の母は宮家氏です。墓地の入り口に、宮家氏風女と一緒に
「**圓融居士 天明七年歿年十六鞭木又太郎源照朗」
を合祀した供養塔があり願主鞭木氏となっています。
栄左衛門(千代蔵、八郎左衛門)英寿の妻は里久、後妻三木(多加)は内藤彦右衛門藤原満治四女とあります。
森太(虎之助、八郎左衛門 号松雲斎 俳号眠鶴)重則は明治十五年に五十九才で、妻松は明治三十九年に亡くなっています。
虎太郎重嗣の妻津満は金谷氏、後妻美弥は井原市木之子の後藤冬太妹です。
孝史重昌(号春陽)は虎太郎の長男で母は後藤氏、妻幸は倉敷市西阿知の守屋定四郎長女です。仲世は孝史三男で台湾沖で戦死しています。
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