小川家
窪屋郡笹沖村





粒江小川九郎右衛門満遠三女が窪屋郡濱村吉見屋阿曽沼四郎右衛門家の男を婿養子に迎えています。後に粒江の本家が出資した新田開発によって手に入れた田地を管理するために分家を立てたようです。八左衛門は笹沖村開発より四年目の元和七年、三十五歳で笹沖村へ出、それから三十五年経った明暦元年に七十才で死去しています。

八左衛門満留――+――孫兵衛正之 ――+――孫兵衛留言  ――+――孫兵衛本繁  ――+――浅太郎
阿曽沼氏    |  享保3     |  延享1       |  安永1      |  宝暦7
明暦1     |  室中村氏    |  室小野氏     |  室萱谷氏     |
室満遠娘    |  室小川氏    |           |           +――辰次郎
        |          +――吉左衛門     +――女        |  大坂笹野屋養子
        +――養心      |  大坂笹野屋分家  |  小野正規妻    |
        |  小倉家嗣    |           |           +――孫兵衛兼任  ――+
        |          +――女        +――女        |  文化2      |
        +――女       |  阿曽沼惣次郎妻  |  廣井儀左衛門妻  |  室小川氏     |
           間野與三次妻  |           |           |           |
                   +――女        +――女        +――男        |
                   |  忠左衛門妻      平井和介妻    |  佐藤家嗣     |
                   |                       |           |
                   +――女                    +――女        |
                      小野正成妻                |  守安清介妻    |
                                           |           |
                                           +――忠六       |
                                           |  間野家嗣     |
                                           |           |
                                           +――重五郎      |
                                              竹下家嗣     |
                                                       |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――齋介紹名
|  享和3

+――彦蔵
|  丸川家嗣

+――女
|  村田勝蔵妻

|  分家
+――鉄蔵

|  室野崎氏

+――孫兵衛邁==寿太郎  ――和太郎 ――+――茂樹  ――男
   安政4   小川氏    昭和15  |  昭和54  室脇本
   室田中氏  明治12   室三島氏  |  室藤田氏
         室小見山氏        |
                      +――右平
                         分家

孫兵衛正之の代に笹沖山根へ屋敷替えして酒造を始めています。屋号は笹田屋と云いました。妻は笹沖村の中村孫右衛門娘ですが、天和三年に若くして亡くなり、粒江村小川平六の娘を後妻に迎えています。この人は吉岡村岡崎與兵衛妻となり男子一人出生した後に離縁復籍していました。平六は粒江の宗家の分家で、同じ株内からの入嫁になります。
正之の弟は天城村塩屋小倉四郎右衛門の養子となっています。また、妹が生坂村間野與三次妻となっていますが、生坂村間野家の史料と照合を重ねた処、清水家の九代前源太兵衛貞秋の妻以外に該当する人がないだろうという結論に達しています。

一般に、酒造で長い間家が栄えることはとても珍しいことです。造酒屋というと現代では名門旧家と思われているようですが、実際には二百年も続いている酒屋などは皆無に等しいようです。酒造りは文字通り「穀潰し」、日本民族の生命の源であるお米を削り潰すので、罰当たりな作業とも解釈できます。神罰が下って長続きしないのだと云う人もありますが、農耕のように地道な作業とは違い、どんぶり勘定の大商いや大博打になりやすいのがいけないのかも知れません。造酒屋から政治家が出ることもよくあります。もともと経済感覚が庶民的でないのですから、派手な公共事業をやって税金を無駄遣いする政治家も多いのです。女性スキャンダルでホントにあっという間に消えた**総理、日本中に1億円ずつばらまいた**総理などを思い出します。

三代孫兵衛留言の妻は浅口郡舟尾村小野市郎左衛門長明の娘で、その母は小田村真安宗右衛門重家の長女です。
留言の弟吉左衛門は大坂に出て笹野屋と名乗り、商家になったようです。故郷笹沖村の笹を拝借した屋号でしょうか。その妻は天城村小倉養心の娘、即ちいとこ同士の結婚になっています。小倉家の墓地に、
「**妙安信女、延享二年、大坂篠野屋弥八郎室名佐登」
とありますので、吉左衛門=弥八郎のようです。
留言の妹は、濱村阿曽沼惣次郎、安江村原忠左衛門、沖村小野與左衛門にそれぞれ嫁いでいます。何れも当時村々の庄屋を勤めていた家です。惣次郎母は養心の義姉です。また、惣次郎の家は初代八左衛門の生家とは別です。当時、小倉、阿曽沼、小川の三家はずいぶん複雑な重縁がありましたが、いま健在なのは小川家だけ、他の二家は行方知れずです。
原忠左衛門家も絶家、同家は安江庄屋原四郎右衛門分家です。
小野與左衛門は新屋元祖です。

孫兵衛本繁の妻伊呂は西阿知村亀屋萱谷仁右衛門娘です。妹は窪屋郡沖村の小野助兵衛、小田郡山口村の廣井儀左衛門由久、浅口郡七嶋村の平井和介へ嫁いでいます。

本繁の子辰次郎は大坂笹野屋へ養子に行っていますが、宝暦三年に十八才で亡くなり梅田墓所に葬られています。留言の弟吉左衛門の跡を嗣ぎにいったものと思われます。辰次郎の弟忠六が生坂村の大庄屋間野次郎四郎英明娘の婿養子となり、三五平清明と改めていますが、三五平と同世代の本家当主間野茂利治貞本妹清が大坂堂島永来町(えらまち)の塩屋藤井飯瓶(はんべえ)の妻となり、死後梅田墓地に埋葬されたという記録があります。笹野屋、塩屋、それから貞本実弟が立てた笘屋別家、これらは親戚づきあいをしていたのではないかと想像されます。
孫兵衛兼任の妻は粒江村の鞭木家分家小川三右衛門娘です。この当時、屋敷は二十六棟に及び、家運は最も隆盛でした。兼任の弟は早島村市場の庄屋佐藤助左衛門の養子に、妹源は西郡村の庄屋守安清介へ嫁いでいます。重五郎は岡山紙屋町の鳥羽屋竹下文兵衛養子となりました。

兼任の次男彦蔵は玉島阿賀崎新町西阿知屋丸川新平兼品の養子となり源助居孝と改名しています。その妹は浅口郡舟尾村の柳屋分家村田勝蔵へ嫁いでいます。鉄蔵は分家、この妻は天城村野崎七郎右衛門娘です。
孫兵衛(民介)邁の妻中は八重村田中武左衛門娘です。

邁夫婦には二男子がありましたが何れも幼くして亡くなり、妻の実家田中家から養子を迎えますがこの子も夭死、遂に同村小川代介嫡子寿太郎(明治十二年歿年五十五を養子に迎えています。寿太郎は七代孫兵衛を名乗り、小田郡白石島の本陣小見山勝介次女絹を妻に迎えます。小川代介の家との関係はよく判りませんが、倉敷市史に笹沖小川家について書かれた箇所があり、
「嘉永五年歿、七世小川言朝三男同代介歳六十八」
とあり、言朝、代介、寿太郎と続くことが解ります。市史には、
「小川氏は名主と組頭の家があったが、組頭の家の方が古い」
という記述もありますし、実際に足高山に拡がる墓地を歩いてみると小川姓が他にも多く、中にはかなり古い年代を刻んだ墓碑も見られます。粒江の鞭木家から、或いはこの株家から笹沖村へ分かれた家は他にもいくつかあったのかも知れません。何れにしても代介の家と孫兵衛の家は鞭木家の分家として株家付き合いを続けていたのではないかと思います。

和太郎の妻與志野は倉敷市沖の三島林助長女、茂樹の妻志加は福田古新田の藤田亀治長女です。右平は倉敷市藤戸町天城へ分家しています。


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