小倉家・塩屋
児島郡天城村





天城薬師山墓地の入り口に、享保16年から寛政12年まで、4代70年に渡って児島郡大庄屋を勤めた小倉家の無縁墓が散在しています。墓地整理が徐々に行われていて、これらの墓碑もいずれは片づけられ、小倉家は跡形なく天城から消え去りそうです。

藤戸寺の境内にある宝篋印石塔に、宝暦13年小倉四郎右衛門(宗右衛門)知*(明和7歿)が建立した宝篋印塔があり、寺の記録には知*先祖及び親族の供養をした記念碑といわれます(*=言扁に甚)。

釋了哲(天和1、11、4)
釋妙秀禅尼(元禄6、8、5)
釋良心(享保5、4、19)
釋雲晴尼(貞享3、4、14)
釋全融(寛保1、9、24)
釋恵林禅尼(宝暦6、7、24)
政林恕貫居士@
政室恕貞大姉@
一機寂空居士
天嶺元高禅人
智鏡信女
貞性
釋了逸(享保7、10、24)
釋真観(延享1、10、24)
海恵寶明居士@
大安慧得居士@
常在院■本信女
寂室妙安信女@
観蓮妙秀信女
覚圓寿徳居士@
密巌是亮@
智照妙恵信女
於紋童女
釋教円(宝暦2、5、11)
釋幻廊童子
釋幻夢
小通世童女
黄嶺義晴
芳嶺■晴
戒巌如線
観晴信士@
智性信女@
倡楓亮伽
妙瑞
法心妙用
有阿信士@
覚洞妙範@
庭月妙泉
冷月妙恵
中西登右衛門
随覚浄苑
本成理達
本圓還我
心念浄通
冷真妙通
月圓妙巌
辻藤十郎
彦崎男溺死
木見女溺死
八塩屋新蔵
舟尾長兵衛妻

上記のうち、小倉家の墓石で確認できるものは()内に歿年月日を入れています。
更に、いくつかの仏名について、私が知っているものを整理しておきます。上記仏名に@を付けています。
政林恕貫居士(享保14)と政室恕貞大姉(享保5)は粒江小川(鞭木)家の墓所にあります。政林恕貫は八郎左衛門満春、政室恕貞はその妻で、窪屋郡生坂村間野家から入っています。
覚圓寿徳居士(寛延3)は満春夫婦の嗣子満昭で、この人が鞭木に改姓しています。この妻安延氏は安永2年に亡くなっていますから上記のリストに出ませんが、満昭の嗣子満喬(宝暦7、海恵寶明居士=は海慧寶明居士)、その妻板野氏(寛保2、密巌是亮)、更に、満喬の子藤右衛門未満(宝暦12、大安慧得)がリストアップされています。
有阿信士(心月有阿、宝暦7)と覚洞妙範(享保15)も粒江鞭木家の墓所にあり、辰右衛門全久夫婦です。全久は満春の兄弟のようです。
これらから、詳しい関係は判りませんが、当時の小倉家と小川家が濃い親族関係にあったことが推測されます。

更に、鞭木家の分家になる笹沖の小川家所蔵系図によると、上記の寂室妙安信女は大坂笹野屋吉左衛門の妻で、小倉養心娘(延享2)とあります。養心は小川孫兵衛正之弟で、小倉四郎右衛門の養子となった人であり、笹野屋吉左衛門は正之の子になりますから、吉左衛門夫婦はいとこ同士ということになります。吉左衛門の仏名は覚翁観清とありますので、上記の観晴信士と一致するのかも知れません。仏名の場合は同音異字で記されていることが多いようです。ということで、改めて見ると、次の智性信女は智照信女かも知れず、窪屋郡濱村阿曽沼惣次郎妻應譽智松善信女(寛保3)かも知れません。この人は笹野屋吉左衛門の妹、夫惣次郎の母は小倉養心の姉(義姉)のようです。

中西登右衛門というのは愛右衛門とよく誤記されています。「登」と「愛」の崩し文字がよく似ているので、この人の名があちこちで間違われていて、1人2役のようになっています。本人はそのつもりではないので、さぞ迷惑をしていると思います(^_^ ;
小川満春の子で中西家に養子に入った人です。

釋良心=釋養心です。墓地には良心という墓碑がないようですから、良心=養心という解釈で良いと思います。「養」という文字の上にある「羊」と「八」を除くと「良」になります。養という文字は墓碑文にはよく出てくる文字ですが、「羊へんに良」と彫ってあるのを時々見かけます。

以上のようにみて行くと、藤戸寺供養塔を説明した同寺過去帳に列挙された名は、小倉家を中心にした親族を近親順に並べたのではないかと思います。藤戸寺の住職が檀家以外の仏を把握しているわけはないので、原稿は四郎右衛門が作ったのでしょうし、当時家に遺った書き物を参考にしたのだとうと思いますから、他家の仏名には不明のものあり、聞き伝えで同音異字になっているもの等入り交じったのでしょう。

四郎右衛門――四郎右衛門――源介知勝――四郎右衛門知章――市郎左衛門栄名――貞八郎知善――+――政太郎知則・・==順太邦義
惣兵衛        宗右衛門   寛政1   喜蔵       才三郎      文政8    |  文政3      水澤
寛保元年   明和7          寛政12     文政4      室尾崎氏?  |           明治20
                                             +――萬五郎
                                                文政7

小倉家の跡を受けて大庄屋を勤めた中島富次郎の記録には、小倉家没落の原因は知則が酒色に溺れたことのように書いてありますが、上記の流れを見ると、最後の2代はかなり若年で亡くなっているようですから、たった1代の放蕩が逼塞の原因とは思えません。いろんな家の系図をみていると、家が隆盛になる時には長寿の当主が続き、逆に逼塞するときには短命の当主が続いています。この辺りはまったく動植物の繁栄・絶滅と同じです。
小倉家は文化12年春に家屋を売り払い、その後の足跡は途絶えています。もちろん、何処から天城にやってきたものかもまったく判りません。「流れに浮かぶうたかた」そのままです。
知善親子の死去から約4分の1世紀以上経って古い親族になる水澤家がこの家を再興していますが、邦義の子供達も他家に養子に出たり嫁いでしまっています。



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