大原家
窪屋郡倉敷村





大原家は元禄年間に児島郡灘崎村字片岡から倉敷村に移住しました。もとの姓を原野と云い、それを原と改め、幕末に苗字御免の許しを得て以後、大原と名乗っています。

新禄の代表の1家で、特に明治以後の繁盛にはめざましいものがあり、倉敷紡績、大原美術館、倉敷中央病院など、のこした業績という点では県内に並ぶものない家といえます。財力の蓄えと共に地方や全国的な名門といわれるような家々と姻戚関係を結んでいます。
大原家は、同じ新禄派商人の植田家や大橋家のように先祖に武将伝説を持ちません。ただ、戦国時代は、一部の公家を除いて、みな刀を持って生活していたわけですから、大原家の先祖も武士として生きていたことは間違いないと思います。

その足跡を辿る資料をあたってみると、次のような記録がありました。

片岡に原野謹太郎(明治二十年生)という人がいて、父原栄太郎が明治の初め頃に原を改めて原野と称しました。曾祖父原新之助の時、系図を他人に貸して紛失していますが、熊野権現について来たとも、常山落城の時に土着したとも云います。屋敷を土居といって、鎮守荒神を祀っています。西南方二三丁城ヶ原という三段からなる城山があり、三村孫太郎の居城址といいます。原野氏の第一祖墓は豊島石製印塔ですが、崩壊して文字不明、第二祖は豊島石製籃塔四尺五寸ばかりで正保二年と判読されます。
現存一族に品市(明治四十二年生)、治郎造(明治二十一年生)などあり、謹太郎先祖より品市氏先祖が分かれ、品市氏先祖より治郎造氏先祖に分かれる。

覚法了阿――直翁唱阿――法岳禅智――栄三郎――柾吉  ――治郎造
文化5   天保3   慶應4        明治29

治郎造先祖より与兵衛金基(寛政九歿)大原氏先祖へ分家するといいます。栄三郎が火災にあった時、本家の栄太郎が大原家へ無心に行き見舞金を貰ったといいます。栄三郎は所有田八畝歩を大原孝四郎氏に売り渡したといいます。柾吉は石工頭となって倉敷紡績会社工事に出勤中、孝四郎よりなぜ原野に改姓したのか、原姓が良かったのに云々と語られたといいます。

また、大原忠則の姉妹は植松村原氏へ嫁ぎ、その子も植松村原家を嗣いでいますが、植松村原家についても次のような記録がありました。

植松村土着の村役人に原家があり、その先は本荘村大字塩生より出る。

忠助 ――忠助 ――忠三郎――善蔵 ――代三郎――善左衛門――善三郎 ――儀太郎
正徳5  元文1  天明2  天明8  天保5  弘化4   明治18

儀太郎は明治十五年頃、彦崎村との合併の時助役に就職、同三十七年退職してその後岡山へ転住して以後不明。

以上です。

倉敷村には社会的弱者救済と相互扶助の目的で義倉という制度があり、裕福な順番に基金を拠出するということになっていました。明和6(1769)年の創設当時には大原(原)家先祖の名は見られません、天明8(1788)年にやっと最下等に名を現しています。それが、明治3(1870)年には大橋家と並んで1位となり、大正5年には大橋家を抜いて特級になっています。文久年間には大橋平右衛門と共に村の庄屋を勤めています。明和から文久年間の約70年でかけあしで村のトップに登り詰め、明治21(1888)年、倉敷紡績設立の頃、所有田畑は約八百町歩の大地主になっています。明治の中頃には、妹尾全部の富は、早島の溝手に及ばず、早島全部の富を集めても、倉敷の大原には及ばない、といわれます。

九兵衛――甚右衛門――孫右衛門長則――+――惣右衛門
           室原氏     |  在片岡村
                   |                分家
                   +――忠右衛門忠則   ――+――甚助一則
                   |  享保16       |
                   |  室花木氏       +――與兵衛忠之――+――與兵衛金基  ――+
                   |  室亀山氏       |  明和3    |  寛政9      |
                   |             |  室鳥山氏   |  室阿部氏     |
                   +――女          |         |           |
                   |  原氏妻        +==小右衛門   +――釧秀       |
                   |             |  花木氏 分家    忠吉跡嗣     |
                   +――女          |                     |
                      古屋野氏妻      +――半右衛門               |
                                    原氏へ                |
                                                       |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――與兵衛好道  ――壮平清久 ――+==孝四郎宣之――+――孫三郎  ――総一郎 ――+――女
|  文政3      原氏     |  藤田氏    |  昭和18   昭和47  |  犬養家へ
|  室福武氏     明治15   |  明治43   |  室石井氏   室野津氏  |
|           室家女    |  室原氏    |               +――男
+――安右衛門     室和田氏   |         +――卯野           |
|  小山家嗣            +――久野     |  吉井屋へ         +――女
|                        原家嗣     |                  正田家へ
+――女                                |  分家
   藤田直之妻                     +――南賀
                             |
                             +==多喜
                                藤田氏分

倉敷村に移住した忠右衛門は、妻の弟小右衛門に自分の娘を嫁がせて吉井屋という分家を立てさせています。大原家中興の祖とも云うべき、壮平(確堂)は分家の吉井屋原家から養子に入っています。この壮平の才覚により、天保年間に全国的規模で展開した米相場の成功によって大きな身代を築き上げました。この人は、新禄派の植田武右衛門の跡を引き継いで村の庄屋を勤めています。この人には豪胆な逸話があります。あることから人に恨みを買って、短刀で左の耳を切り落とされました。医者が縫おうかと云うと、右に耳が残っているからこれで上等と、縫わせなかったそうです。切りつけたのは坂田屋礼助というやくざっぽい男で、水澤家の婚礼の世話をしたのに礼が少ないと云うことで、汚物を庭の中に投げ込み、これを捕らえて裁いたのが庄屋の壮平だったそうです。裁くときに役所で裁かずに児島屋の個人の家で平服に頭巾をかぶって裁いたということで、礼助に根に持たれたようです。この礼助は浅尾騒動を起こした大橋敬之助とたいへん仲が良かったようです。この耳切り事件で代官所の牢屋に放り込まれた礼助を助ける目的で代官所襲撃を思い立ったという誤った解釈もされているくらいです。

壮平のあとは、岡山の丸亀町(岡山市野田屋町)備中屋藤田家から養子に迎えられた孝四郎(新渓)が相続しています。しかし、孝四郎も入家した頃はたいへんだったようです。何せ備中屋というと岡山城下の老舗、そこでのんびりと成長したのですから、たたきあげの商売人の壮平の目には、ずいぶん物足りない養子に見えたと思います。入家した孝四郎は、前後に商売の荷を下げた天秤棒をかついで、物売に歩かされていたそうです。そういう養父の厳しいやり方に応えて、孝四郎も家産を大きくします。明治22年に創立された倉敷紡績に進んで巨額の出資をして初代頭取に就任しています。向邸(新渓園)は孝四郎の設計に依ります。孝四郎の妻は大原の分家で、壮平の実家になる吉井屋から迎えています。

こういう立派な土台の上に立って家産を大きくする傍ら、数々の社会事業をやって家名を、いや倉敷という町を全国的に有名にする下地を作ったのが孫三郎(敬堂)です。親苦労(九郎)、子楽、孫平(孫兵衛)と云うのは、祖父が苦労して財産を築き上げても、子が楽をして、孫の代には跡形もなくなるということを云ったものですが、大原家の場合、いや世の中で成功している家は皆この逆を行っていることが解ります。創業よりも後継者の育成がいかに難しいものか、たいせつなものかが解ると思います。

孫三郎の活躍の舞台は、中国銀行頭取、倉敷紡績(クラレ)社長、農業・社会問題・労働科学研究所、岡山孤児院、倉敷中央病院、大原美術館など、ひじょうに多岐に渡っています。同い年に生まれた幼なじみで社会主義者として有名な山川均は、社会・教育事業など社会の幸福増進のために金を使うことを忘れなかった敬堂を評して、米国のカーネギーのような近代的実業家と讃えています。林源十郎の紹介で会った石井十次からキリスト教義を学び、倉敷を聖地エルサレムのようにしたいと願ったようです。孫三郎の妻寿恵子は広島県福山市深津の石井家から来ています。
子総一郎は岡山一中、六高、東大を経て、倉敷絹織(後のクラレ)に入社します。その後は家業を継承する傍ら、音楽、絵画、民芸など多方面に渡る趣味人として、また、そのパトロンとして多忙な人生を送っています。事業面では、ビニロンの工業化を成功させ、中国向けビニロンプラント輸出契約を締結、日中経済交流に貢献しました。妻は野津鎮之助侯爵の次女真佐子、長男が跡を継ぎ、長女は犬養木堂翁の孫、次女は美智子皇后の弟へそれぞれ嫁いでいます。

吉井
屋の系譜は次のようになっています。

小右衛門忠吉==小右衛門釧秀――+==小右衛門近貞――+==弥太郎   ――恵似
花木氏     金基弟      |  真平弟     |  板野氏後離縁  本家孝四郎妻
室大原氏    文化12     |  文久1     |  室清久娘
        室家女      |  室釧秀娘    |
        室岡本氏    |          +==唯七昌孝  ――+==幸次郎智恭
                +――ふみ         藤波氏     |  片山
                |  青山家嫁       明治17    |  明治20
                |             室清久娘    |  室卯野
                +――清久 本家嗣             |
                                      +==邦三郎  ==澄治彰邦――+
                                         神々氏    星島氏   |
                                         室卯野    昭和43  |
                                                室家女   |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――++――玄太郎 ――+――男
   室井上氏  |  室三木氏 
         |
         +――女
         |  池内家へ
         |
         +――男
         |
         +――男   ――+――女
         |  室永井氏  |  沢山家へ
         |        |
         |        +――男
         +――女     |
            山崎家へ  +――男

孫三郎の姪長の婿養子となって吉井屋原家を嗣いだ澄治(すみじ)は、児島郡藤戸村(倉敷市藤戸町)の星島寛の次男です。寛は明治33年から5年間藤戸村長を勤めています。星島家は、寛の祖父義兵衛の代に大庄屋を勤め、苗字帯刀を許可されていますが、家の評価を低く見積もる人がいるという点で、大原家とよく似ています。澄治は孫三郎より2歳年下ですが、本家の事業をよく補佐しています。大正7年から約5年間倉敷町長を勤めています。今の市長ですが、当時は名誉職で無報酬だったそうです。土建屋と結託して私腹を肥やすような政治家は昔は居なかったのですね。澄治は天体観測が趣味で、彗星で有名な本田実さんが長年天文台長を勤めた倉敷天文台を創設したのは原澄治です。原澄治、本田実、共に倉敷市の名誉市民に選ばれ、市庁舎に肖像画が掲げてあります。

店(東吉井屋)原家の系譜は、

甚助一則――忠右衛門長幸――+――真平信秀   ==忠右衛門惟忠――甚五郎致広==健   ――+
天明2   文化13    |  文政4      亀山氏     大正6    山本氏   |
室葵氏   室       |  室難波氏     慶應2     室清水氏   室早瀬氏  |
              |           室信秀娘    室片岡氏         |
              +――只吉               室大口氏         |
                 吉井屋嗣                          |
                                               |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+==半三郎
|  藤田
|  昭和52
|  室健娘

+――節
|  星島弘道妻

+――嘉代子

+――豊子
   宮里氏妻

新川分家は岡山の藤田家から迎えられた養女多喜(孫三郎の従姉妹)に浅口郡阿賀崎村山本常太郎次男順次郎を婿養子にして立てた分家です。孫三郎は自分の血族女子に婿養子を迎えて次々に分家を創りました。

順次郎 ――+――伍一
山本氏   |  室河相氏
昭和3   |
藤田氏  +――十次郎
         昭和21
         室安東氏



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