大村家
津高郡野々口村(御津郡御津町野々口)
大村家の先祖は源頼朝の家来梶原平三景時で、景時八代孫景豊が應安の頃に肥前國大村より備前国に来て、備前国金川の玉松城二代城主左近將監元満に仕えたという記録があります。城主松田氏は田原藤太藤原秀郷を祖とし、相模国から地頭として移住してきたようですから、大村の先祖もかつては関東で松田氏と行動を共にしていたのかも知れません。
彌藤左衛門景村は大村と改姓し、城主松田元親に仕えています。
越中守盛胤は松田元方に仕え、代々の通字「景」を改めて「盛」を通字としました。
福岡城主浦上宗景(赤松方)を松田元成が攻めた時(文明十五年末)、出雲守盛恒は雲州尼子氏へ加勢を頼むように使者を命じられました。戦いは赤松氏の内紛もあって思いがけず松田氏が勝ち、その勢いに乗じて元成は三石城まで攻め込みました。ところが、今度は一生懸命防戦する浦上勢にたたかれて松田軍は散り散りになって逃げ出しました。元成もただ一騎になって戦いましたが、磐梨郡矢上村の山の池というところで切腹して果てました。出張から戻ってきた大村出雲も主君の死骸の横で切腹しました。元成の子元勝は死骸を埋葬し、寺を建立しました(立雲山大乗寺)。この寺は寛文二年に廃寺となり、元成と出雲の墓だけ遺っています。
長門守盛長は松田家の家老を勤め、野々口村をはじめ十七ヶ村(野々口、吉尾、小山、中山、辛川、東菅野、西菅野、田原、深溺、中野、高尻、大坪、大月、下牧、中牧、湯次、十谷)、三千石の知行地を与えられていました。その村々は後に大村家が備前池田藩の大庄屋として統括支配した村々にほぼ一致しますので、江戸時代の農村支配の原型を戦国時代に求めることが出来る地域があると云えます。
長門守は主君の命令に従って単身敵の大将の館へ乗り込み、相手の隙を狙って斬り殺したという武勇伝が遺っています。
永禄十一年七月五日の夜、宇喜多直家が虎倉城主伊賀左衛門久隆を味方に引き入れて玉松城を攻めたとき、出雲守盛忠は野々口村から馬で城に駆け付け敵兵を多数馬上から切り殺しますが、自らも鉄砲の球に当たって討死しました。野々口から金川まではJR津山線で丁度一駅の距離ですが、城下町を造ってそこに家臣が住む仕組みのなかったころの不便な戦の様子です。この戦の時、盛忠の長男家盛は十六歳でしたが、父の遺体を馬に載せて宇垣村まで引き上げています。この人は生来病弱であったので、家督を弟元盛に譲っています。天文二十二年、主君の松田元成と共に武蔵国池上本門寺や身延山に参詣した後、出仕を辞めて仏門に入っています。この身延参詣の時に案内役を務めたのは親族の日典聖人でした。
臥竜山道林寺にある宝篋印塔と板碑、板碑には「松田舊臣之裔大村官右衛門房重享和元辛酉歳之営之」とあります。道林寺は三代元泰が玉松城三の丸に持仏堂を建て(現在の道林寺丸址)、五代元方が大覚大僧正を開基として創建しました。備前法華最盛期には四大本寺の一つでしたが、永禄十一年にに玉松城が落城し、天正初年に現在地に移転しました。
大村一族は野々口、建部、津山、すべて平法華ですが、この一族から不受布施派の祖日奥の師日典が出ています。天文二十(1551)年、身延山に遊学し、同二十二年には備前妙覚寺門徒一行の巡拝案内を務めています。永禄六(1563)年に京都妙覚寺十八世を嗣いで子弟の養成に力を入れました(天正二十年歿、享年六十五)。
松田家滅亡後も大村家は宇喜多家によって本領を安堵されていたようで、元盛は朝鮮出兵に付き合っています。この朝鮮役の従軍で、元盛は日典から守本尊や曼陀羅を贈られています。朝鮮国から故郷に送られた書状の宛先の中に日典上人の父世安が入っています。家盛、元盛との付き合いの様子やこの書状の宛先名から、日典と従兄弟同士の間柄と考えました。
元盛の子六右衛門盛重は備前池田家から大庄屋に任命され、以後六代に渡って大庄屋役を継承しています。冒頭写真の墓碑は野々口大村本家の古い墓地ですが、幾つかの墓碑に「平姓」と深く刻まれています。
大村家の系図はかなり詳しいのですが、六右衛門盛重(万治三年歿年八十六)より前は兄弟の記録がほとんどないので、洩れている分家もあるようです。津山市妙法寺境内にはひろく大村一族の墓碑が建てられています。中には「野々口屋」と彫られたものもあり、野々口大村家の分家になるようです。
盛重の弟治右衛門は池田武蔵守利隆に仕え、その妻は岡山藩岸織部娘です。中世の小豪族子孫がどのように幕藩体制に組み入れられていったのかが解ります。概して、土地持ちの直系相続人が農民となって、庄屋大庄屋などの村役人として藩政を下支えし、次男三男で、土地分け(分産)もままならない時、或いは一代の才覚によって、藩の役人となったのです。従って、士/農工商と云われても、もともと同じ兄弟家族なのですから、士=農工商となるわけで、ことさら士族であることを強調するような風潮は江戸時代には存在しなかったと思います。いろいろな家のお墓を見ても、「士族」と刻まれるのは全て明治以降の墓碑です。「士族」という言葉も明治になって生まれたのですが、身分社会を特に意識したのも明治になってからではないかと思います。江戸時代の士農工商は、兵農分離による治安維持のためと、自然な形で受け入れられ、人の値打ちを別けるものではありませんでした。
盛重の長男五郎右衛門は津山森中将忠政の家臣林源四郎の養子となって大坂の陣で戦功を上げ、後に故あって一旦実家に戻り、後に美作国苫西郡錦織村(久米郡中央町)丹澤(湛増)家の養子になっています。甚左衛門盛國は村内に分家した後、建部新町へ移住して綿屋の祖となりました。小右衛門は赤坂郡平岡郷新庄村西谷に住んで農業を営みました。半左衛門盛吉が父盛重の跡を嗣ぎ、大庄屋職も継承しています。この人は大村家中興祖と云われています。彌一左衛門盛信は岡山城下二番町に住分家しています。藤右衛門盛良は「作州丹澤家養子」とあるので、長兄五郎右衛門の跡を嗣いだのかも知れません。
冒頭写真「受性院浄圓」が盛吉の長男勘四郎盛治の墓碑です。戒名の文字は指の第一関節までが収まるほど深く刻まれていて、この頃が大村家の最盛期であったことが判ります。盛治妹は九谷村の二宮利右衛門へ嫁ぎ、弟彌一左衛門は岡山二番町の叔父盛信の養子となりました。
半左衛門盛房の妻は備中妹尾の佐藤三郎兵衛義信娘です。盛房弟次郎四郎は首部村(岡山市)の原家を嗣いでいます。
松田元成家臣に、佐藤式部、大村弥五郎という名が見られますし、妹尾(大福)の佐藤家は御津町金川方面から南下したとも云われます。また妹尾の佐藤祐金方之四男は津高郡建部町三明寺に移住しています。佐藤義信の先祖も松田氏の影響下にあった武将かも知れません。
勘四郎昌盛は宝永五(1708)年生まれ、享保二年、十六歳で名主役を拝命し、同年六月に大庄屋となりました。宝暦五年二月に在方下役人となり、三十俵二人扶持の給料を藩から貰う侍になりました。知徳兼備の人と云われ、その功績は大きかったようです。五十三歳で忠左衛門尉盛喬と改め、安永四年八月二日に六十八才で死去しています。妻は建部新町の分家綿屋大村弥三治盛貞伯定の娘です。
油屋所蔵系図によると、平二郎盛辰は尾関金右衛門の養子となって後に金右衛門を襲名しました。房重一代記では、寛政元年八月六日に尾関直右衛門芳忠が七十九才で死去(1789-79=1710 法号義寂
)したとあります。その生存年からみると、尾関芳忠は平二郎盛辰と同一人物のようです。つまり房重夫婦はいとこ同士になっているようで、房重の妻「たか」が僅か十才で大村家に引き請けられていることも理解できます。
和七郎は「楢村新左衛門(寛延三年歿源心院了観)」とあり、楢村家に養子に入ったものと思います。同様に定八郎(武右衛門)は下田屋某の養子となり与兵衛と改めています。
官右衛門房重は大村宗家六代目の大庄屋で、その事績は自筆の日記(一代記)に詳述されています。姉お瀧は目木村福島六郎右衛門正致に、妹「さの」は首部村原圓右衛門に嫁いでいます。
房重の一代記は現在も解読中です。ロシア船が長崎沖に来たこと、九州島原で火山が爆発したこと、江戸の大火など、全国規模の大事件も記されています。多くは村内や近郷(同郡内)の紛争、村役人としての勤めの様子などが記されています。
明和六(1769)年七月晦日の項に、「おみす生、後おかぢと改、金川嫁す」と書いてあります。お梶と改めたのは小児期の大病の後ですが、江田家に入った後に更にお松と改めています。
お梶誕生の前、七月から八月にかけて南の空に巨大な彗星が毎晩みられたという面白い記事があります。この彗星についてパソコン通信のフォーラムで質問をしたことがありました。お二方からたいへん親切なコメントを戴きました。その時の感激は忘れられません。この二つのレスは、パソコン通信にはまり、引いてはインターネットのホームページまで開くことになった一つのきっかけでもあります。
房重夫婦には亀右衛門、瀧之助、お秀、お梶の二男二女がありました。長男亀右衛門(勘四郎恒房)は十七才で早世、お秀は備中大福村佐藤三郎兵衛信興へ嫁いでいます。これは曾祖母の実家になるようです。
瀧之助盛永の妻「ふき」は岡山紙屋町の福田氏娘です。
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梶原 大村改姓 右門之助景豊――弥藤左衛門景村――左京之進景盛――越中守盛胤――出雲守盛恒――肥前守勝盛――長門守盛長――+ 文明16 大永1 永禄7 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――出雲守盛忠――+――左衛門太夫家盛――+――九郎右衛門 ・ 永禄11 | | ・ 室 | 室 +――女 ・ | ・ +――甚左衛門元盛 ――+――六右衛門盛重 ――+――五郎右衛門 ・ | 慶長14 | 万治3 | 丹澤家嗣 ・ | 室 | 室小田川氏 | ・ | | +――甚左衛門盛国 ・ +――治郎太郎盛之 +――女 | 分家 ・ | 大村九郎右衛門妻 | +――世安 ――日典 | +――小右衛門 +――女 | 分家 | 石川善右衛門妻 | | +――半左衛門盛吉 ――+ +――女 | 延宝7 | | 楢村新三郎妻 | 室小田川氏 | | | | +――治右衛門 +――弥一左衛門盛信 | 室岸氏 | 分家 | | | +――女 | | 楢村孫之丞妻 | | | +――女 | | 荒木清太夫妻 | | | +――藤右衛門盛良 | 丹澤家嗣 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――勘四郎盛治 ――+――半左衛門盛房 ――+――勘四郎盛喬――+――瀧 | 宝永3 | 宝暦6 | 安永4 | 福島正致妻 | 室 | 室佐藤氏 | 室大村氏 | | | | +――官右衛門房重――+――勘四郎恒房 +――女 +――女 +――平二郎盛辰 | 文化8 | 安永6 | 二宮利右衛門妻 | 二宮胤碁妻 | 尾関家嗣 | 室尾関氏 | | | | | +――半左衛門盛永――+ +――彌兵次盛保 +――女 +――女 +――さの | 天保11 | | 盛信跡嗣 | 武田九郎右衛門妻 | 河原伯之妻 原圓右衛門妻 | 室福田氏 | | | | | | +――女 +――次郎四郎 +――女 +――秀 | 市村孫助妻 | 原家嗣 | 松崎尹宣妻 | 佐藤信興妻 | | | | | +――宇左衛門盛勝 +――和七郎 +――梶 | | | 楢村家嗣 江田喜三治妻 | +――六右衛門盛之 | | | 寛延3 +――定八郎 | | | 下田屋嗣 | +――女 | | 湛増伊兵衛妻 +――女 | | 某家嫁 | | | +――女 | | 原又三郎妻 | | | +――女 | 土岐栄房妻 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――瀧之助盛益 | 天保14 | +――善次郎 | 美作屋嗣 | +――ふじ | +――官蔵 | 人見家嗣 | +――頼 | 福嶋植之丞妻 | +――梢 | 有元来庵妻 | +――要次郎盛佳 ――+==慎三郎盛隆――+――槌三郎盛時 | 安政2 | 人見氏 | 明治20 | 室 | 明治32 | | | 室盛佳娘 +――勘四郎盛正――+――彌三二盛重――+――盛長 ――+ +――國松 | | 大正14 | 大正8 | 昭和25 | 佐野屋嗣 +――奈於 | 室福島氏 | 室大村氏 | 室菅氏 | 長尾景敏妻 | | | | +――忠一郎 +――男 +――女 | | 大村家嗣 吉田家嗣 | | | +――常子 | | 西崎建太郎妻 | | | +――女 | 秋山耕妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――秀男 | 昭和20 | +――光夫 | 昭和19 | +==章夫 ==A ――K | 原氏 | 室盛長娘 室章夫娘 | +――房子 船橋進妻
要次郎盛佳は、はじめ大岩村(おいわ)の伊原傳左衛門の養子となりましたが、兄瀧之助盛益が引退したため、実家に復籍して名主役を引き継ぎました。槌次郎(善次郎)は美作屋某の養子、官蔵は日應寺村の人見才八郎時宗の養子、國松は岡山仁王町佐野屋養子となりました。岡山市網浜の平井山墓地、国富家や福田家の墓地の上に佐野屋と刻まれた墓地があります。お頼は作州茂瀬の福嶋植之丞妻、梢は作州目木村有元来庵妻となっています。
慎三郎盛隆は人見官蔵盛時の次男で、盛佳の甥です。盛隆夫婦はいとこ同士になります。盛隆妹は備中山ノ上長尾平二兵衛妻となっています。
盛隆の嫡男槌三郎盛時は明治二十年に亡くなり、家督は次男勘四郎盛正が嗣いでいます。この妻は大庭郡目木村福島信二郎の長女、官右衛門房重姉瀧の子孫になります。忠一郎は同村大村熊次郎の養子となりました。盛正には他に柏谷村西崎建太郎と備中高松秋山耕へ嫁いだ妹がありました。
彌三二盛重の妻は同村大村角太郎娘です。上記の熊次郎とこの角太郎家は株家になると思いますが、どの代から別れたものか不明です。
盛重の弟は広島の吉田家を嗣いでいます。
盛長は彌三二長男で、妻菊子は久米郡福渡町下神目菅寛次郎次女です。夫婦には二男二女がありましたが、二人の男子は共に戦死して、長女槇子が養子章夫を迎えて跡を嗣いでいます。
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兼右衛門 ――幸七1840――角太郎 ――+――女 明治9 明治29 昭和21858 | 彌三二妻 室 室1838 室1860 | +――松野1881 | 長瀬善平治妻 | +――芳一1885 昭和45 室1889
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