頼家
賀茂郡竹原町



初代総兵衛(道円)が備後国頼兼から竹原に移住しています。天明1年、5代春水は藩儒官となって広島に移りました文化13年に71才で亡くなりました。

総兵衛正茂――彌七郎道喜――彌右衛門良皓――+――又十郎惟清――+――彌太郎惟完――+――久太郎襄―――+
                  善祐  |  亨翁     |  春水     |  山陽     |
                      |         |  文化13   |  天保3    |
                      +――忠七郎    |  室飯岡氏   |  室小石氏   |
                      |         |         |         |
                      +――伝五郎    +――松三郎惟彊  +――権次郎允鼎  |
                                |                   |
                                +――四郎惟柔             |
                                                    |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――余一元協――東三郎元啓――彌次郎元縮――成一
|  聿庵    誠軒     古楳
|  安政3   明治27   昭和6

+――復二郎復==竜三潔庫山――久一郎
|  支峰    柏村氏
|        昭和4

+――三樹三郎醇
   三樹
   安政6

山陽は安永9年に江戸堀北1丁目の父春水の家塾青山社で生まれています。母静子は大坂の儒医飯岡義齋の娘です。翌年、父は広島藩儒官として赴任しています。7歳の時から叔父杏坪に就いて学問を始め、武術も藩道場で貫心流の剣法を修めています。12才で「立志論」をつくり、14才で「千載青史に名を残さん」という漢詩を書いています。その年、柴野栗山に就いて朱子の通鑑綱目を読んで、史実を明らかにして政治の指針を示そうと志しています。たいへん頭脳明晰であったようですが、18才の時に藩命で江戸へ行く杏坪について遊学し、1年経って帰郷した頃から精神に異常を来して挙動も不審という状態になっています。21才で問題行動により、藩命で幽閉され、25才で廃嫡の手続きをとられています。その後、24才頃から著述をはじめ、28才で有名な「日本外史」を著しています。その後も改訂を繰り返して、48才の時に、「新策」「日本外史」「日本政記」の3部作を完成させました。
山陽の季子三樹は安政の大獄で江戸小塚原において処刑されました(35才)。

権次郎允鼎――三千三君鉱――常松――達三
景譲     達堂

惟彊(文政8歿73才葬竹原照蓮寺)は竹原に住んで医師、儒者として暮らしました。そのあとは次のようになります。

松三郎惟彊==尚平元尋――+――禧六来禧――平格惟精
春風     小園    |  来洲    允中
文政8    花山氏   |
             +――廉次郎慎――+――俊直方――+――猷太郎
             |  葦汀    |  耕齋   |
             |        |  室羽田氏 +――菫二
             |           |
             |        +――鷹二郎 確のあと嗣
             |
             +――三郎確==鷹二郎惟周
                篁渚   絶庵

四郎惟柔(天保5歿79才)は天明5年に藩儒官になっています。あとは次のようになります。

四郎惟柔――佐一郎舜寿――栄次郎正義==五百重――寿――益
杏坪    采真
天保5

伝五郎のあとは、

伝五郎――+――千蔵養堂――+――常太立齋――邦吉成菴
     |  竹里竹堂  |  文久3
     |  嘉永4   |
     |        +――大之助
     +――九郎次郎  |
     |        +――益三
     +――武四郎   |
              +――介石

福山の羽田家との関係を整理するために郷土資料を参考にまとめてみました。


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