佐伯家
賀陽郡足守村




了性 ――哲心  ――虚白  ==吉郎右衛門房勝――+――仙助
宝永5  享保1   享保11  安原氏      |  安原家嗣
     室鈴木氏  室     安永5      |
                 室佐伯氏     +――吉右衛門継房――+――金蔵重房
                 室難波氏        天保2     |  文化10
                             室難波氏    |  室入江氏後離縁
                             室難波氏    |
                                     +==甚右衛門正継 ==吉右衛門継述――+
                                        安原氏      野田氏     |
                                        文久2      明治11    |
                                        室伊丹氏     室正継娘    |
                                        室高戸氏             |
                                        室栗原氏             |
                                                         |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――雄之助
|  明治12
|  室鳥羽

+――順平
   明治34

房勝は虚白(戒名)の養子として清水村安原勝峯の子が入ったとあります。それより年代が古い墓碑が二つあり、了性は妻に相当する墓碑が見当たりませんが上記のように並べてみました。
房勝室の墓碑には「佐伯氏房勝妻」とあるので虚白の娘と思います。房勝後妻は下足守村難波仙慶の娘で四男一女を生み、寛政十年に九十三才で亡くなっています。二男一女の行方は書いてありませんが、三男が安原正郷の養子となり、末男が家を継ぐとあります。
八田部村の清水屋安原家の墓誌で、分家初代仙助正條が佐伯房勝の子で母は難波氏であることが判っています。清水屋は井手村清水(清水村)の安原家の分家であると云っていますが、本家から佐伯家を嗣いだ房勝の子が分家に養子に入っているということで、安原家の本家分家関係の実証にもなっています。
継房妻は備前岡山の難波体全の娘で、一男一女を生んで三十九才で亡くなっています。この男子金蔵重房は同じ墓に埋葬されています。この人は文化十年に二十九才の若さで亡くなり、妻岡山入江氏との間に子は無く、妻は離縁復籍しています。
継房後妻には子がなかったと記されています。

甚右衛門正継は八田部村の安原常房の子で、継房兄仙助の孫です。はじめに伊丹氏の娘を妻にして一女をもうけますが、妻伊丹氏は離縁しています。その後、高戸氏、栗原氏と後妻、三妻を迎えましたが、子がなく、娘絹子に児島郡波知村野田亀五郎次子(吉右衛門継述)を迎えて跡を嗣がせています。
児島八浜村の野田家の略系を説明した書類に、亀五郎季美の子が「佐伯氏 足守橘屋養子」とあります。橘屋は葛原匂當の日記にも出てくるようですが、緒方洪庵を輩出した佐伯家ではないので、足守には他にも佐伯という家があるはずだと思っていました。おそらく洪庵の出た家もこれらと同族ではないかと思います。「洪庵日記」の一部にも「佐伯吉右衛門」という名が見えます。
吉右衛門継述の姉伊保は間野慶明妻(文政十一年歿年三十二 1828-32=1796)です。
吉右衛門継述の墓碑には児島郡波知村野田亀五郎次子とありますが、正継の墓誌には「養那須氏為嗣以配其女」とあります。これは野田亀五郎が那須家から野田家に入った人だからと思います。
継述の代に資産が増え、藩の用達となって、ついに中小姓となって俸禄をもらうまでになっています。
正継の三妻峯栗原氏は、明治二十九年に九十三才で亡くなっています。新庄下の古庄屋、おそらく市太夫長定の娘ではないかと思います。



ホームページへ