斎藤家
児島郡天城村
斎藤家の先祖は、美濃国主で織田信長の舅になる斎藤山城守道三ということです。これは、斎藤家のご子孫の口からもお聞きしましたし、斎藤小十郎光近の墓碑文に
「・・・君姓斎藤道三山城守之裔也諱光近通称小十郎
世世仕旧備前藩太夫池田勢州食禄百八拾石為鉄砲頭
自祖父嗜兵法・・・」
と書いてあります。
正福寺の境内墓地には、天城池田家3代目の当主由孝妻の供養塔があり、
「聞寿院殿守庭妙花大信女、池田氏源由孝之室斎藤氏之墓、元禄7甲戌年2月26日」
と彫られています。天城池田家の系図によると、由孝の妻は斎藤九右衛門娘とあります。この供養塔は正福寺境内墓地の一段高い丘にあり、この丘を取り囲むようにかなり広い範囲に、俗名の諱に「光」の文字が彫られた斎藤姓の墓碑が点在しています。他姓の墓碑はそれぞれ狭い範囲に集合していますが、斎藤家の墓碑の分布はちょっとかわっています。小源太光屋の両親の墓碑は由孝妻の供養塔のちょうど裏に建っています。
由孝の父由成の墓誌には、
「・・・祖妣斎藤山城守女先考諱由之号出羽守・・・」
とあって、由孝の曾祖母は斎藤道三の娘であると書いています。
ただ、「寛政重修諸家譜」には池田由之の母は伊勢兵庫頭某女とあり、倉敷市にも
「池田元助の室は伊勢兵庫頭貞良の女、斎藤山城守竜興の外孫女
由之を生み卒す。一説に斎藤義興の女とするは誤なり」
とあります。これについては一応次のような関係になるのかと理解しています。斎藤道三というと日本歴史上でも有名人ですが、その子女になるともう名前すら判らないのです。
斎藤道三──+──義龍──龍興 | +──新五郎──+──新五郎 | | | +──兵左衛門 +──濃 | ‖ | 織田信長 | +──女 ‖ +──――由之 ──由成 ──+──由孝 ──由勝 ――+==保教 ‖ 元和4 寛文8 | 元禄9 宝永1 | 綱政男 ‖ | 室斎藤氏 | 後綱政跡嗣 ‖ | | ‖ | +==政純 ――+――政辰 ‖ | 綱政男 | 宝暦12 池田恒興──+──元助 +──熊子 大石権内良昭の妻 明和3 | | 天正12 +――政喬 ――――+ | 文化6 | +──輝政──利隆──光政──綱政──・・・ 備前藩主池田家 | | +――──――――──――――──――――──――――──――――──――――──――――──――─――――──――+ | +――政孝 ==政徳 ――政昭―― 文化14 政恭男 弘化2 室政孝娘
なお、由孝の妹熊子は、万治元年に播州赤穂浅野内匠守長矩の家臣大石権内良昭に嫁ぎ、翌年には内蔵助良雄を生んでいます。熊子は良昭より4歳ほど年上だったようです。熊子は元禄4年3月14日歿、享年56、松樹院鶴山栄亀大姉。京都で亡くなったので、寺町綾小路錦綾山聖光寺(浄土宗)に墓碑があるようです。墓碑の丈は総高3尺3寸(約1m)、施主大石内蔵助良雄と彫られているそうです。以上は藤戸町誌によりますが、倉敷市史には、播州赤穂にて卒、同所華岳寺に葬るとかいてあります。おそらく両方に墓碑があるのでしょう。
天城池田家は織田信長の乳兄弟で有力武将だった池田恒興の長男で、小牧長久手の戦いで父恒興と一緒に討ち死にした元助を祖としています。池田家は次男の輝政が継ぎ、その子孫は鳥取と岡山の藩主となっています。元助の子由之は父が死んだとき幼かったので、叔父の輝政が嗣ぎ、元助の子孫は岡山藩池田家の家臣となったようです。
斎藤新五郎・兵左衛門兄弟の兄の方の新五郎は斎藤織部義興と名乗り、池田家内で1100石取りとなりました(岡山市国清寺葬)。
斎藤織部義興──久兵衛──弥三郎(400石)――静楽久興 ――+== 一興(400石)――三郎助隆興――善興 ――+ 享和1 | 上阪氏 明治17 明治43 | 室佐分利氏 | 文政6 室宮部氏 室村上氏 | | 室久興娘 | | | +――新兵衛真興 | 天保12 | | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +―― 一太郎――清太郎 大正12 昭和16 室安田氏
斎藤清太郎氏は東大の歴史学教授を勤めました。
慶應4年正月、江戸に逃れた徳川慶喜を追討するための官軍部隊が編成され、備前池田家はその先鋒を命じられました。天城池田家も4銃隊を組織してこれに加わりましたが、この銃隊長に斎藤小十郎、布施藤五郎、田中軍治、本城保が任命されています。天城勢は桑名、鎌倉、江戸と進軍し、6月10日に奥州に出兵。8月24日からは会津若松城の攻撃が始まりました。ここは白虎隊でも有名なように、たいへんな激戦のあったところで、斎藤小十郎は29日の城の西北融通寺口の戦で、敵の大軍に大打撃を与えてこれを敗走させますが、自らも敵の銃弾にあたって戦死しました。享年37歳、その功績により斎藤家は20石を加増されて200石となっています。明治新政府のために命がけで働いたということで、その墓碑は官修墳墓に指定されていました。
正福寺境内の斎藤姓の墓碑を読んでまとめました。
小平太光顕──宇右衛門光英──光繁 ──小源太光屋──長兵衛光旦──+──小十郎光近────+ 明和2 明和7 文化6 天保11 嘉永4 | 明治8 | 室長崎氏 室妹尾氏 | 室永嶋氏 | | | +──天津 仁科存仁妻 | | | +──小兵衛 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――──+ | +──三男次 ―― 子 ──三郎 大正15 昭和40 平成6
未だ調査中ですが、渡邉章助保富の妻が光屋の娘になるのではないかと思っています。光繁は文化6年、妻長崎氏は文政6年に死去しています。保富が妻を迎えた頃、父は既に他界していたので、渡邉家の過去帳から洩れたのではないでしょうか。
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