真安家
小田郡小田村
真安(さねやす)家の先祖は、源平合戦の頃に三備(備前、備中、備後、いまの岡山県から広島県東部)に勢力を張った平家の武将妹尾太郎兼康と云われます。家紋は丸に橘で、紀姓です。
兼康19代の子孫三郎兵衛尉重康が小田神戸(こうど)山城主小田家に仕えて、同城の城代になり、文禄4(1592)年に、小田家が毛利家の命によって安芸國に転勤した後、神戸山城郭とその山麓の屋敷を譲り受けて、この地方の毛利家代官として150石を与えられたそうです。重康の娘は城主小田治部太夫政清の妻となっています。いまも、真安家には小田家の位牌を合祀していると云います。
妹尾 三郎兵衛重康――+――五郎左衛門重兼――+――新左衛門政康 | 永禄7 | 天正3 | 室三村氏 | | | 真安 +――女 +――六郎左衛門実康――+――與一郎重次――+――平助重正 小田政清妻 元和9 | 承應4 | 分家澤田屋 室小田氏 | 室三村氏 | | +――女 +――女 | 三好秀家妻 川辺某家へ | +――男 | 正保3 | +――宗右衛門重家――+ | 貞享2 | | 室吉岡氏 | | | +――七兵衛 | | | | | +――六左衛門 | | 三村家嗣 | | | +――女 | | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――女 | 小野長明妻 | +==吉郎右衛門正慶――+――女 | 重正男 | 真安正次妻 | 宝永1 | | 室吉岡氏 +――三郎兵衛正勝 | | 正也跡嗣 +――治郎右衛門重吉 | 分家 +――道純正路 室馬越氏 | 分家 | +――祐三郎正則――+――弥三郎重常 ――+――縫右衛門正親――+――秀三郎 | 延享3 | 宝暦10 | 宝暦14 | 延享3 | 室三好氏 | 室猪原氏 | 室辻氏 | | | 室小畠氏 | +――八野右衛門正流 +――男 | +――女 | 明和7 | 宝永7 +――吉郎右衛門正光 | 享保2 | 室辻氏 | | 分家 | | +――女 | +――女 +――伊壽 | 宝永7 +――女 | 享保4 | 宝暦1 | | 中谷国秀妻 | | +――女 | +――作右衛門正智 +――美喜 | 正徳6 +――女 | 分家 | 宝暦5 | | 松井正博妻 | | +――藤助尊家 | +――男 +――助三郎正嘉 ――+ 分家 +――女 | 享保4 | 文政6 | | 真安正富妻 | | 室近藤氏 | | +――女 | | +――久右衛門正久 | 上杉幹満妻 +――坂次郎正康 | 分家 | | 安永8 | +――女 | | | 近藤須明妻 +――浅次郎正秀 | | | 明和9 | +――太三郎 | | | 享保16 +――佐賀野 | | 橋野治喜妻 | +――美與 | | 大津寄尚令妻 | | | +――友之丞 | 元文5 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――曽代 | 西郷盛廣妻 | +――女 | 文化1 | +――男 | 天明4 | +――栄五郎正治 ――+――助三郎正倫――+――富 | 嘉永1 | 文久3 | 西古良三妻 | 室栗田氏 | 室山口氏 | | | +――茂登 +――勢武 +――萬亀 | 天保11 | 天明8 | 田邊満廣妻 | | | +――栄五郎正道 ――+――久 +――女 +――千久 | 明治11 | 明治1 | 岩津顕親妻 | 小野包高妻 | 室間野氏 | | | | +==正照 +――近蔵 +――武八郎 +――政 黒田氏後離縁 | 田邊満良跡嗣 山田家嗣 | 松本謙蔵妻 | | +――女 +――源兵衛 | 尾崎厚正妻 | 小瀬家嗣 | | +――女 +――省三正用 ――+――鼎吉 | 寛政11 | 大正3 | 佐藤家嗣 | | 藤井氏 | +――民治郎正武 | +――幾枝 分家 +==茂四郎 | 河合滝二妻 | 藤井氏 | | 河本家嗣 +――昇男 ――+――東太 | | | +――松代 | 室 | 室名越氏 | 児島高信妻 | | | +――淳三 +――女 +――角 藤原喜太郎跡嗣 中村家嫁 上杉量太郎妻 藤岡小市妻
重康の孫六郎左衛門実康の諱を、その子與一郎が苗字とし、実康与一郎重次と名乗りました。与一郎の次代になると、この地方は幕府天領となり、実康家は備中代官小堀正次に仕えました。実康の「康」の文字は家康の「康」と同じなので、正次の命により、実安→真安と変えたと云います。正次の跡を継いだ政一は遠州と号し、宮中、備中松山城その他各地の普請作庭を行っています。小堀家が転勤になった後に、小田地方は備中庭瀬藩領となり、真安氏は庭瀬板倉藩の庄屋や大庄屋を世襲しました。
与一郎の跡は弟の宗右衛門重家が相続し、吉郎右衛門正慶、祐三郎正則、弥三郎重常、縫右衛門正親、八野右衛門正流、助三郎正嘉(これは正流弟で準養子)栄五郎正治、助三郎正倫、栄五郎正道と代々庭瀬領の大庄屋を世襲して明治を迎えました。
正慶の姉は浅口郡舟尾村の柳屋小野家に嫁いでいます。正治の弟、及び正倫の妹は、浅口郡長尾村(倉敷市玉島長尾)の田邊家に入っています。正道の妻鐵は窪屋郡生坂村の間野與平克明の娘ですが、この夫婦は早世し、正道の弟、省三が準養子なって相続しました。鐵さんの墓碑には「間野與平藤原克明長女」と彫り込まれています。間野五三兵衛家の氏は「藤原」であると書いた古文書が清水家にありますが、この鐵さんの墓碑によって古文書に書かれてる意味が解りました。やはり、関係親族は隈無く調べた方が良いようです。省三の妹は窪屋郡酒津村の児島家に嫁いでいます。省三の長男鼎吉は児島郡下村佐藤家の婿養子となりますが、家女早世の後、後妻を備後尾道の備前屋山路家から迎えています。
与一郎の長男平助重正は堀越に分家を立て澤田屋と称しています。これは、神戸山の麓が山陽道から奥まったところなので、交通の便をとって出たもののようです。重正の跡は千右衛門正重、平助正利、儀兵衛長義と続きます。
平助は小田村の庄屋を勤め、西の神辺宿(広島県深安郡神辺町)と東の川辺宿(吉備郡真備町)の間の休憩所として、参勤交代で往来する諸藩行列の世話をしていたそうです。この正利の妻が備中松山藩の宗旨改役を勤めていた清水彌右衛門の次女で、備前領窪屋郡生坂村の石原茂一兵衛義芬の妻「とめ」の実叔母になります。清水彌右衛門から丸川源太夫に宛てられた「覚え」に石原茂一兵衛と真安平助が一緒に登場しているのは、こういう親族関係があったからのようです。
堀越真安(澤田屋)の流れを書くと、
平助重正――+――千右衛門正重 ――平助正利――+――儀兵衛長義――+――伊右衛門――+ 寛永17 | 元禄9 享保2 | 寛保9 | 室福田氏 | 室三村氏 | 室加賀野氏 室高戸氏? | 室大島氏 | | | 室海野氏 室清水氏? | | | | 室真安氏 +――藤四郎 +――三五兵衛 | | | 中西家嗣 吉田家嗣 | +――吉郎右衛門正慶 | | | 重家の養子 +――仙右衛門 | | 延享2 | +――小左衛門正也 | 分家 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==平助由充==平五郎 ――清太郎 ==平四郎 佐藤氏 由明男 明治41 岡本氏 室辻氏 明治5 室齋藤氏 昭和17 室 室家女
「とめ」の実母の墓碑はこちらのページで紹介しているように、土砂崩れで長い間土中に埋もれていました。この正利の妻となった「とめ」の妹の墓碑も埋もれたままのようで、何となく不思議な因縁を感じるような話です。
儀兵衛の妻は窪屋郡倉敷村の古禄の1つ、金屏風の伝説で有名な大島屋の娘です。このあと、堀越真安家は街道筋にはやった伝染病(コレラと云われる)にやられて一家族みな死に絶えたと云います。街道筋に出て世話役を買って出ていたのが裏目に出たようで、神戸山の麓(熊という所)に居続けた本家は難を逃れました。
堀越真安の跡は、幕末に、有木に分家した小左衛門正也の子孫平五郎によって再興されています。そういうこともあって、儀兵衛長義のあとから平五郎の前までの系譜はよく判りませんが、整理のために上記のようにつないでみました。
有木真安の系譜は、
小左衛門正也==小左衛門由富――兵左衛門栄澄――永助由清――平蔵由明――+==佐五郎由友――+ 元禄10 重吉男 天明4 天保3 | 慶應3 | 室馬越氏 延享5 室真安氏 | 室家女 | 室家女 | | +――平五郎 | 澤田屋再興 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――浅五郎孝澄――正太郎正也――+――四方蔵 ――武夫 ――正幸 明治29 大正1 | 昭和6 昭和63 昭和54 室藤井氏 室川合氏 | 室佐藤氏 室 室 室佐藤氏 | +――興代 浅野米三郎妻
慶長5年の真安与一郎の所有田地はわずかに1町3反余でした。しかし、堀越の分家、重正の三男小左衛門正也は京都で商売に大成功し、小田村の田地を次々に買収して一族の経済力の基盤を作り上げました。
「ハァ〜小田でさねやす、矢掛で佐渡や、ツケて流すが津野坂や」
と雲助道中歌にも唄われるほどの大金持ちになったようです。佐渡屋は矢掛の本陣を勤めていた石井家のことです。小田の禅源寺にある小左衛門の墓碑は、中心の柱とその上の笠の部分の石は一つの石から切り出したものです。いかにその富が大きかったかが解ります。
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