関藤家(関家)
小田郡入田村
尾張津島四家七党の一つ岡本氏、尾張清洲人岡本治兵衛重国(定孝、良勝とも)の後裔です。
重国の子岡本下野守重政は伊勢亀山城主、その兄左衛門国政(入道三休)。
慶長五年の関ヶ原戦の時西軍に属し、敗戦となって弟重政は桑名城中に自刃、兄国政は脱走して、初め備後国市村(福山市)に隠れて横山氏と名乗りました。
その後、入田村に移ってから、故郷の美濃国関藤(せきふじ、不破の関の西付近)という地名を採って関藤と名乗りました。
国政は入田村東谷に邸を構え、熱田神宮大宮司の一族と云い、神官となりました(持高八十石)。国政の跡は四男余治郎が継ぎ、長男は篠坂村広戸(広頭)に、次男は入田村国行に(屋号花川)、三男は入田村に(屋号横家)分家しています(各々二十石)。
岡本改関藤 左衛門太夫國政――+――某 ・・・不明 | 篠坂村広戸 | +――某 ・・・五郎右衛門 | 入田村國行 | +――某 ・・・丹波 | 入田村横家 | +――余治郎 ――+――治郎左衛門――治部若宮――三河宗政――出雲政重――長門政則――+ 本家嗣 | 享保14 享保4 宝暦7 明和9 | 押撫社役、大河社役 | 室増成氏 室佐藤氏 室佐藤氏 室笹井氏 | | 室佐藤氏 | +――清左衛門 | 分家中屋 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――豊子 | 清水好高妻 | +――右京政信 ――+――政矩 文化5 | 西川家嗣 室平井氏 | 室平井氏 | 関 +――政方鳬翁 ――+――梢 | 萬延2 | 坪田立庵妻 | 室鳥越氏 | | +――政就 +――千代子 | 天保7 | 鳥越嘉助妻 | | +――去来子 +――成章藤陰 | 塩飽氏へ 分家 | +――景秀 | | 室藤井氏 | +――稔 | 藤井佐仲妻 | +==代助 ――+――登与 三宅氏 | 森田喜代蔵妻 室政方娘 | +==代吉 ――+==大次 ――+ 酒井氏 | 酒井氏 | 室登与 | 昭和20 | 室山名氏 | 室黒木氏 | | | +――クマ | | 堀家毅妻 | | | +――作太郎 | | | +――トラ | | 渡辺正脩妻 | | | +――安太郎 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――マサヨ | 宮地敏太郎妻離縁 | 塚本長恵妻 | +――カメ | 塚本類一妻 | +――新一 | 昭和40 | 室藤本氏 | +――タケノ | 村上弘一妻 | +――キミエ | 綿引正壮妻 | +――静枝 山名克三妻
政重妻は入田村平木の佐藤五郎三郎娘。政則の後妻は同郡山口村の佐藤氏。
政信は神職を姉の子清水権頭好高に譲り、吉浜村に出て医師となりました(上写真は笠岡市吉浜の慈恩寺裏山にある政信墓碑)。
政信妻は笠岡村亀屋平井長四郎三女房子で一男をもうけますが早世、後妻に先妻の妹戸母子を迎えて三男三女をもうけています。この姉妹は小寺清先の妻と姉妹になります。
房子の生んだ子政矩は大坂宿老伏見屋嘉平の養子となりますが、後に復籍、享和元年早川代官に従って江戸に出て西川家を嗣いで西川太右衛門と名乗りました。
政方鳬翁(ふおう)は紀州の華岡随軒(外科)に学んで笠岡で開業しています。萬延二年に七十六才で死去し、その墓は笠岡古城山西の登口にあります。子が次々に早世するので、石塔と音が共通の関藤から関に改めたといいますが、医者の家には病菌が入りやすいので、むかしの医者の家には童子、童女の墓がたくさん建っているのが普通です。
政方長女梢は大島村坪田立庵へ、稔は備中吉備津宮神職藤井佐仲へ嫁ぎ、六女田鶴に後月郡與井村(芳井町)田中屋三宅代助を婿養子に迎えています。
田鶴の一人娘登与には西浜村久我氏仲介で同村酒井代吉が婿養子に迎えられましたが、登与は笠岡村の森田喜代蔵へ嫁ぎました。代吉は品治郡宮内村の山名治介長女ナツを娶りますが、明治二十一年に離縁したので、ナツは代吉の子作太郎、安太郎を連れて実家に戻りました。クマは賀陽郡真金村の堀家毅に、トラは福岡県の渡辺正脩へ嫁いでいます。
代吉のあとは、金浦村西浜酒井大吉の三男大次を養子に迎えています。妻津留は後月郡西江原村(井原市)黒木忠平長女です。
マサヨは沼隈郡走島村宮地敏太郎へ嫁いだ後に離縁となり、後に笠岡町塚本長恵へ、カメは笠岡町笠岡の塚本類一へ、タケノは愛媛県の村上弘一へ、キミエは茨城県の綿引正壮へ、静枝は山名克三へ嫁いでいます。
関藤家調査を思い立ったのは、石原家の縁戚になる山名S氏から関藤藤陰との関係についてお聞きしてからです。山名克三がS氏の近親になるのではないかと思っています。
成章藤陰――+――成元 明治9 | 明治4 室蜷川氏 | +==成緒 ――国助 ――+==礼彦 ――永素 | 内藤氏 昭和22 | 栗田氏 昭和26 | 室三俣氏 | 室大島氏 | 室成章娘 | 室上田氏 | | +――末吉 +==阿い 慶應1 松下氏 吉本清三妻
成章(藤陰)は実母が早世したために伯母清水豊子に養育されました。後に入田村の縁者中屋七左衛門の世話で西方村(井原市県主)石川順介直経の養子になりました(石川渕蔵と名乗る、他に関五郎、和介、文兵衛とも)。西方には他に北田、小寺、土屋の旧家があります。。妻は福山藩蜷川郡平の三女で、二男一女がありましたが、男子は何れも幼くして亡くなりましたので、内藤延忠次男大友平五郎に嫁いでいた一人娘が相続しています。即ち、大友平五郎は後に藤陰の家を嗣いで成緒(号北涯)と改めています。
以上、関藤不二男著「よしはま物語」を参考にしました。
余治郎の子清左衛門は同村内に分家して中屋と称します。この家系が最も繁栄して村の庄屋を勤めました。
清左衛門の跡は七左衛門が嗣ぎ、甚左衛門は押撫村に分家して同村の庄屋を勤め、三男左衛門若狭は篠坂村の神官となりました。
清左衛門――+――七左衛門 | +――甚左衛門・・・晋四郎――嶺太――啓太郎 | +――左衛門若狭・・・務――通煕
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余治郎――清左衛門――七左衛門――速友 ――清左衛門――七左衛門――+――満知 天和3 元禄17 享保2 宝暦2 | 名越忠次良妻 室 室 室 室 室 室 | +――常右衛門――七左衛門――+――精一 ――+ 元治1 文久2 | 明治41 | 室 室石田氏 | 室 | | | +――七三郎 | | 明治12 | | | +――愛之 | 昭和12 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==碩衛 ――忠雄 ――+――*文 内藤氏 平成6 | 室林氏 昭和32 室 | 室精一長女 +――碩 | 昭和27 | +――*子
墓誌を整理して上のように並べてみました。藤陰を石川直経に世話をした七左衛門は、
「**道津居士 文久二年歿四十五才」
であると思います。この妻巨能恵は吉田村(笠岡市)石田八良右衛門の娘です。
この祖父の七左衛門妻は西中條村孫三郎娘とありますが、姓を刻んでいません。
碩衛は明治四(1871)年に川上郡地頭村(手荘村)の内藤儀一郎二男として生まれ、精一長女丈の婿養子となって関藤家を嗣いでいます。赤磐郡長、浅口郡長、倉敷市長、玉野市長を歴任し、その間岡山県会にも議席を置いています。
忠雄は倉敷市旭町で外科を、その妻貞子は歯科を開業していました。
忠雄嗣の妻林氏、この母の従妹薄田(内藤)佐和子が川上郡手荘村地頭物部亮へ嫁いでいますので、祖父碩衛の実家内藤家と何か関係がありそうです。
笠岡鉄道を創業した小田郡今井村(笠岡市今立)出身の関藤謙治(明治八〜昭和三十九)、その子友八(明治四十五〜平成五)も同族になるそうです。
他に、笠岡市東大戸の莵城守屋家初代半兵衛俊徳妻が「関藤氏」、第四世守屋半兵衛長秀妻美奈が「入田村関藤氏女 文政九年七月六日病歿六十九才(1826-69=1757)自遊法室大姉」となっていますので、常右衛門父七左衛門の姉妹かも知れません。
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