佐藤家・城佐藤
都宇郡中大福村



大村官右衛門房重の祖母は都宇郡妹尾村佐藤三郎兵衛義信の娘(貞享四年生、宝暦八年歿)で、これは大村家の墓碑にはっきりと刻まれていて印象深いものでした。房重の次女「まつ」が金川村の駒井家次男喜三次に嫁いで興したのが江田家になりますので、房重の祖母の実家を捜したいというのが佐藤家調査の始まりでした。

他にも「まつ」の姉「お秀(ひで)」が大福村佐藤三郎兵衛に嫁いでいるという記録もありますし(明和四年生、天明元年嫁、寛政十二年歿)、駒井家の過去帳には大福村佐藤家の人が三人も記されています。少し抜粋してみると、

**院**居士 嘉永五年 備中佐藤三郎兵衛・・・佐藤直右衛門江戸にて死
**院**   明治七年 備中大福佐藤三郎兵衛妻岡山斧田町井村玄五ノ妹お鹿
**院**   明治十二年 備中大福佐藤三郎兵衛

妹尾と大福、地理的にはごく近い場所です。大村家が両方の佐藤三郎兵衛家と数代の内に重縁を結び、更に大村家の親族駒井家と大福佐藤三郎兵衛家が親戚であったとなると(私的な過去帳に他人を記すことはありません)、佐藤三郎兵衛家は何かの事情で妹尾から大福へ移住したと考えられます。どんな事情があったのか、大福へ出た佐藤家はその後どうなったのだろうか?と探求心は高まり、想像がふくらんで行きました。

房重の日記に出てくる大福関係記事を年代順に抜粋すると、

天明二年 大福小とみ生
天明四年 大福おつき生
寛政二年 大福三松出生
寛政四年 大福五蔵出生(享和二年蓮昌寺入 継旭日運法師 文化三年歿年十六)
寛政七年 大福伊丹常右衛門隠居名南(?)計死去
寛政七年 佐藤初三郎生
寛政八年 大福松五郎出生
寛政十一年 妹尾郡屋曾孫お・せ生万々歳
文化五年 大福三郎兵衛母公死去 法号*雲院妙△日◎

戒名が判っていますのでお墓は簡単に判るのではないか、大村家や駒井家との関係は墓碑文から確認が出来る、と簡単に考えて調査に乗り出しました。まず、住宅地図を見ると、妹尾盛隆寺の付近にお墓の印(⊥)が密集しています。これを全部当たってみてもたいした時間は掛からないだろうと思いました。平成七年八月頃のことでした。

平成七年十一月、大村官右衛門房重の大叔父と叔母、及び実妹が養子や妻として入った首部家ご子孫をお訪ねしました。その時に大福佐藤家の話が出ましたので、もしかしたらと思ってお墓の場所を地図に書いていただきました。「妹尾のお寺(盛隆寺)から小学校(妹尾小学校)の横の道を通ってずっと北に行くと、池がある。その土手(堤)沿いに池の西側に行くと佐藤家のお墓が並んでいる」というものでした。妹尾小学校から北で池がある場所は、星和台団地の北しかありません。場所が絞られたので、さっそく脚を運んでみました。ところが、それらしい墓碑は一つも見あたらず、付近のお墓も手当たり次第廻ってみましたが、すべて的外れでした。あとから考えてみると、お墓から半径数メートル以内まで近づいていたことが判りました。人の丈よりも高い草にびっしり覆われていましたので、判らなかったのも無理のないことでした。

平成九年二月、作州安東一族の系譜を入手しました。その中に、「安東宗十郎娘 妹尾佐藤英麿室」という記録がありました。同年五月、その佐藤家をお訪ねしました。この家は幕末に妹尾戸川家の家老職まで勤めたという家ですが、江戸中期に福山から移住してきたので、妹尾に多い佐藤氏との縁戚関係はなく、やはり三郎兵衛の家については不明とのことでした。

その後、或る方から、昔の大福庄屋の子孫ではないかという佐藤家を紹介していただいてご当主のT氏に電話をおかけしたことがありました。代々、喜平治を名乗っていて三郎兵衛という人はいないとのことでした。ご趣味の謡曲「鉢の木」の主人公佐野源左衛門常世が佐藤家の先祖になるというお話は唐突に感じて印象深く記憶に残りました。

平成十年夏、盛隆寺裏の墓地を歩き回っているうちに、郡屋と刻まれた墓を見つけました。房重の日記にある
「郡屋(寛政十一年 妹尾郡屋曾孫お・せ生万々歳)」
がこの家かと直感しました。他にも梶谷家と縁戚になる岡山市山田の庄屋家との縁戚関係を示す墓碑を見つけ、いよいよ房重の日記に出ている郡屋はこの家に間違いないのではと考えるようになりました。房重の祖母の実父が佐藤三郎兵衛義信、この家の墓には彦左衛門良信と刻まれたものがあり、両者の諱の通字(=信)は共通するのではないか、郡屋佐藤家は佐藤三郎兵衛家か、或いはその分家になるのではないかと考えて、お彼岸の前に簡単なメッセージを名刺大の紙に印刷して保護用熱加工フィルムで包んで穴を開け、これを墓前の花立てにくくりつけておきました。
九月中旬、この墓を祀られている方からお電話があり、郡屋佐藤家が絶えていることと同家の略系をお聞きすることが出来ました。しかし、三郎兵衛家との関係はここでも不明のままでした。

平成十二年八月、やはり大村房重の叔母が嫁いでいる岡山市富原の土岐家を訪ねた時、土岐・蜂谷氏系図を拝見する機会を得ました。この中に、土岐家のご当主妹様が妹尾の佐藤猛氏に嫁いでいるという記録を見つけました。電話でお尋ねしてみると、その本家になる佐藤家をご紹介いただきました。早速お訪ねしましたが、「うちはシロザトウの分かれと聞いていて、昔は米問屋でした」と仰り、お友達で地元の歴史に詳しいI氏をご紹介いただきました。

I氏は、「シロザトウがいちばん古いそうですよ。大福新田開発をやりました。かつては日清製紙の工場から妹尾駅までよその土地を踏まずに歩けたと言います。新田を開いてそこに移ったのでしょう」と云われました。それをお聞きしながら、本家が豪農で分家が酒造や米問屋などの農産物を扱う商家となるというのは良くあることだなと思いました。
「シロザトウの墓は小村越(おむらごえ)にあるそうです。大きな貯水タンクがあるでしょう、あれを左手に見ながら小学校側から上る道が小村越です」
シロザトウという名は佐藤家でもお聞きして、その屋敷があったという場所まで教えていただきましたが、その時には三郎兵衛家との関係もなさそうに思って聞き流していました。

妹尾には「佐藤会」という組織があり、I氏からその中心になって活動されているS氏を紹介いただいたので、その方々にも手紙を出してみました。
S氏からのお返事には「自分の家は紋佐藤の系統で、祐金方之の親は左兵衛輔好宗、足利義昭に仕えていましたが、秀吉に追われて作州三明寺、後に児島常山城主上野高徳に随いました。文禄元年に戸川逵安の家臣となっています。」とのことで、シロザトウ直系のご子孫佐藤T氏に尋ねてみられてはというアドバイスをいただきました。

佐藤家をお訪ねして暫く経ったある日、倉敷市史に大福新田開発について書かれているのを見つけました(第六冊八九九頁)。そこに、幕末に中大福村の庄屋を勤めた難波家の系図が載せられています。中大福初代庄屋三郎兵衛の娘、中大福初代庄屋三郎兵衛の子が養子に入っているという記録があります。江戸時代の新田は一般に開発責任者が初代庄屋に就任しましたから、庄屋三郎兵衛は佐藤三郎兵衛ではないのか、捜している佐藤家は中大福にあったのではないかと考えました。

他にも、妹尾と大福関係の古文書で三郎兵衛を探してみました。
澤所沿革史、四六頁に、
「古橋新左衛門様倉敷代官所へ興除新田用水路仕来向取調上申書」という文政十三年四月の文書があり、
戸川主水知行所 備中国都宇郡妹尾村庄屋惣代 三郎兵衛 他
とあります。また、
倉敷市史に、
○文化六年五月二十一日妹尾裏手庄屋三郎兵衛、義平治より亀五郎へ使 佐次郎 与兵衛 年行司相対
○同二十五日妹尾庄屋又兵衛 九郎兵衛 庄右衛門 三郎兵衛 義平次より亀五郎へ使両人・・・
とあります。これは興除新田開発の際の紛争記事の一部のようです。亀五郎は八浜波知の大庄屋野田亀五郎季美文政十三年歿年六十四のようです。

平成十五年一月、倉敷市福島の江口B氏から福島の江口一族についていろいろと教えていただくようになりました。B氏のお家は、中大福村の庄屋を勤めた難波家と縁戚関係にありますので難波家の墓地をお聞きして墓地を訪ねました。実は、ここは平成七年十一月の調査で歩いたことのある墓でした。佐藤でなくて難波と刻まれているのですぐに退却したようです。しかし今度は、墓碑を端から端まで調べ尽くしましたので、中に佐藤姓の墓碑がいくつか混ざっているのを確認出来ました。難波家の系図にある中大福庄屋三郎兵衛が「佐藤三郎兵衛」にほぼ間違いないと思いました。

続いて、佐藤T氏宅の墓地を総ざらえに行きました。

もう少しで目標に到達すると思うと落ち着かなくなりました。もう一度、妹尾中の墓地をしらみつぶしに歩いてみることにしました。
盛隆寺本堂西に佐藤姓を刻んだ墓があるのは最初に妹尾を歩いた時から知っていましたが、後に三郎兵衛家の墓地を知ってから改めて見ると、意外なことが判って驚くことになります。
紋佐藤の墓の周辺にもいくつか佐藤姓の墓が集まっていることに気付きました。所司と改姓している家には、寛文などの年号が彫られているものもありますが、石はそんなに古くないようで後世の建立のようです。その墓地からやや下がった所に、佐藤から佐野へ改姓している家の墓地がありました。佐藤T氏が謡曲「鉢の木」の話をされたのを思い出しました。

歩き回るのはお天気の都合もあります。一日中雨が降った或るお休みの日、岡山市立図書館で妹尾方面の郷土史を書いたものがないかどうか再確認しました。

運良く「妹尾・箕島のむかしをたずねて(平成八年三月三十一日 妹尾を語る会運営委員会発行)」という本が見つかりました。
「妹尾のシロサトウ家は回船業を営む豪商で、白浜町にある稲荷様はこの家の屋敷神でした。ずいぶん広大な屋敷で、昔この辺り一帯が白い浜だったので白浜町といい、そこに居た佐藤だからシロサトウといったそうです。シロサトウは大福の葦浜屋(八浜屋)の分家で、葦浜屋の直系子孫は佐藤T氏です。その葦浜屋の本家が妹尾の紋佐藤になります。妹尾の佐藤一族の祖という祐金方之は文禄元年に中島村(現在の妹尾同前町中島)に住み、同三年に祐金の三男信義が和田の春辺の里へ分家しています。八浜屋は寛永二十年ごろに干拓された大福に分家して出ました。シロサトウには千石船が二艘ありました。倉敷や早島にあった畳表市場で入札権を持ち、仕入れた大量の畳表を遠く江戸から東北地方まで運び、行く先々の特産物を積んで帰って売りさばくというものでした」

もう一冊、こちらは以前に目を通したことのある本でしたが、「妹尾町の歴史(昭和四十五年妹尾町発行、妹尾町の歴史編纂委員会)」に国学者藤井淡叟翁について紹介されている箇所に注目しました。
「藤井家は槌屋町四八二番地に宏壮な居宅稀へ苗字帯刀の家柄であった。淡叟の祖父正右衛門宣暗から本姓佐藤を改め藤井を名乗るようになった」

平成十五年三月、妹尾小学校中島グランド北の墓地に藤井淡叟の墓を訪ねました。そこで
「藤井廉之丞宣安妻 梶谷伊平次正次女梅」
という墓碑を見つけました。
自分と共通遺伝子を持つ人が眠っている墓所は必ず控えるようにしています。一つずつノートに書き写して行くと、
「藤井正右衛門宣時の室佐藤三郎兵衛信興の娘絹 嘉永七年三月二十五日七十三才」
という墓碑を見付けて驚きました。
帰宅してゆっくり生年を逆算すると、「天明二年 大福小とみ生」に一致し、更に、淡叟の分家、即ち淡叟の実家になる墓に、「明治十六年 八十五才藤井千嘉」という墓を見付けました。この千嘉は宣時の娘で、養子を迎えて分家していますが、生年を逆算すると、房重の日記に出てくる「寛政十一年 妹尾郡屋曾孫お・せ生万々歳」に一致します。則ち、大村官右衛門房重の長女が佐藤三郎兵衛信興に嫁ぎ、その長女、房重にとっては初のひ孫が生まれたことまで、房重が記していたわけで、今から約二百年前の記事を私の脚で実際に歩いて検証出来たのですから、ほんとうに感無量の出来事でした。
千嘉の子が淡叟で、本家の廉之丞宣安のあとを嗣ぎました。

ここまで来るともうゴールは目前ですが、住宅地図に記された墓印をすべて廻ってもそれらしい墓が出てきません。
S氏が書かれた「シロサトウと回船業」を繰り返し読みました。T氏宅の墓地を調べ上げたあとですから、I様が仰った「シロザトウがいちばん古い」という話と、「シロサトウの本家は大福の葦浜屋(八浜屋)・・・」という記述は矛盾してきます。T氏宅の墓地にはせいぜい江戸中期までで、初期にさかのぼるような古い墓はないのです。これは直接、S氏に確認した方が良いだろうと思いました。

平成十五年三月S氏のお宅を訪ねてみました。
佐藤Tさんの話では、シロサトウの墓は小村越にあるあの墓がそうじゃ、と言われるんじゃがなあ」
持参した住宅地図に記をしていただいて、さっそくその場所を訪ねることにしました。
「淡叟の墓どころじゃねえ、鎌を持って行かんとダメですでえ」
もう夢中ですから、最後の言葉は聞き流して歩き出していました。

果たして、その場所は何度も行ったことのある場所で、中大福庄屋難波家の墓地から北東、池の西に畑があってその上の方です。そこでまたしても平成七年十一月と同じ場所でつまずき、お墓を探し出すことが出来ませんでした。ただ、少し離れた場所で伊丹姓を刻んだ草に覆われた墓をいくつか発見しました。
仕方なく、もう一度S氏に泣きつきに行きました。
「伊丹という墓はあったんですが・・・」
「そりゃあ違う、遠いところを来られたんじゃから、場所だけでも確かめてからでねえと帰れんじゃろう」
と鎌を持ち出して同行していただきました。



結局、佐藤三郎兵衛家の墓は草むらに埋もれていました。平成七年に訪ねた時に、上の星和台団地まで登った細い道は草でほとんど覆われていましたから、その道から脇に草むらを更に進むことまでは思いもつかないことでした。
「Tさんが、『これがうちの分家のシロサトウの墓です』と言われて、Tさんが世話をされていたこともあります」
草をかき分けて進むと、明治三十四年に亡くなったキリスト教葬の墓が出てきました。更に行くと、享保とか寛保とかの年代を刻んだ墓が現れ、T氏方の墓より確かに古いことが判りました。
「ほんとに古いですなあ、ありゃ、シロサトウが佐藤Tさん方の本家になるんかなあ?」
「*雲院妙△日◎ 文化五年・月・・日」
控えていた覚えに一致する墓を見つけたときには身の丈より高く草むらに埋もれていることを忘れていました。
「あった!!」
七年半、捜しに捜し続けた墓がようやく見つかりました。*雲院の隣には「佐藤三郎兵衛」と刻んだ墓も並んでいました。

後日改めて鎌を持って碑文を読みに出かけました。
六代佐藤三郎兵衛(正徳元年歿)から始まって七代、八代、九代と年代が下っています。八代までいずれも通称のみで諱はありませんが、九代は「西磯本家従宗観九代 佐藤三郎兵衛信明」とあります。西磯本家の宗観より(=従)九代目の佐藤三郎兵衛信明という意味です。それから年代が下るにもかかわらず、文化九年歿五代目佐藤三郎兵衛となっているのは不思議でした。

妹尾は盛隆寺付近を境に東西に、大ざっぱに東磯、西磯に分けられ、いまでも佐藤姓が多いのは西磯になります。また、妹尾から東、笹ヶ瀬川に向けて拡がる江戸時代の新田は北中南の三部に分かれますが、このうち北大福村は古新田村、中大福村は妹尾西磯、南大福村は東磯の人が主に土地を所有していたと云われます。六代の戒名が宗淳、八代が宗陽ですから、宗観は初代三郎兵衛の戒名で、妹尾西磯に住んでいたことが判ります。墓碑に彫られた代数は西磯に住んでいた時代から数えたものですが、途中から五代と逆行したのは、中大福へ移住した代から数え直したからのようです。

平成七年十一月に原様から取材した時の覚えを捜し出し、墓地発見の報告を兼ねて、当時お聞きしていたことを再確認しました。

原様が妹尾(大福)の佐藤家墓地をご存知だったのは、祖母様の実父吉田官蔵夫婦のお墓参りをするために妹尾字小村の墓地に孫を連れて行かれていたからだそうです。吉田家累代の墓所は古新田妙泉寺にありましたが、官蔵がクリスチャンに改宗したのでお寺の墓地に入ることが出来なくなり、親族の佐藤家墓地のある妹尾字小村にお墓を建てていたそうです。その後、吉田家子孫は妙泉寺の墓地を寺に返還、墓石の処理も任せて出郷しました。
原様は、妹尾字小村の佐藤家墓地の管理は浦田家の人がされていたと云われ、佐藤T氏のことは全くご存知ないようでした。

佐藤家は明治になってから岡山の上之町で呉服屋や郵便局をしていました。ですから妹尾小村にあるお墓の続きは岡山の東山墓地(火葬場近く)にあります。墓地は畑を購入して地上げをして造ったと聞いています。直系の子孫は岡山医専に行きましたが、子がいないまま死亡しました。その奥さんも後に和歌山に住んだので、東山に建てた墓さえも祀る人がいなくなり、狩谷家に養子に行った硬が東山墓地の掃除を引き請けることになりました。しかし、息子が病弱で、自分も高齢になったので死ぬ間際、原家に掃除を引き継いでくれないかと頼んできて暫く引き請けていたこともあります。幸いにその息子が良くなってたので、また狩谷家で世話をしていましたが、佐藤から牧師さん(石川氏?)の家に嫁いでいた人が捜して訪ねてこられ、あとは自分たちでお祀りをしたいと申し出られたそうです。嫁ぎ先の牧師さんの家で不幸が続き、祈祷して貰った所、お祀りされていないご先祖があるからと云われたのが理由だそうです。
硬の息子で体が弱かったが後に元気に成長して原家から東山の佐藤家墓地の管理を引き受けたというのは一九といい、「藤井いっちゃん」と云って訪ねてこられたのは親子で、横浜の方で商店経営されているということでした。昭和五十年頃のことだったと思います。

三郎兵衛――三郎兵衛――三郎兵衛――三郎兵衛――三郎兵衛――+――三郎兵衛
  宗観                          |  正徳1
                              |  室
                              |
                              +――三郎兵衛義信――+――女
                                 享保12    |  大村盛房妻 
                                 室       |
                                         +――三郎兵衛   ――+
                                         |  寛保2      |
                                         |  室        |
                                         |           |
                                         +――女        |
                                         |  深井政十妻    |
                                         |           |
                                         +――女        |
                                         |  難波九右衛門妻  |
                                         |           |
                                         +――兵助       |
                                            寛延4      |
                                                     |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――三郎兵衛信明 ――+――三郎兵衛信興――+――小とみ(絹)
|  天明9      |          |  藤井宣時妻
|  室深井氏     |  室大村氏    |
|           |          +――おつき
+――三郎兵衛信房   +――茂四郎     |
   改深井増左衛門     難波家嗣    +――三松
   文化9                 |
   室                   +――五蔵
                       |  文化3
                       |
                       +――初三郎
                       |
                       +――松五郎    ――+――直右衛門信治
                          改東左衛門信吉  |  嘉永5
                          文久2      |
                          室吉田氏     +――九郎太信忠
                          室難波氏     |  浦田家嗣
                                   |
                                   +――三郎兵衛  ――太治作 ――+
                                   |  明治12    室     |
                                   |  室井村氏          |
                                   |                |
                                   +――於政            |
                                      吉田某妻          |
                                                    |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――某

+――硬
|  藤井家嗣後
|  狩谷家嗣

+――清治   ――+――某
|  明治35   |  室
|         |
|         +――女
|            石川家嫁
|         
+――東三郎
   明治14

宗淳室と浄栄は生年に十年の隔たりしかないので、宗淳が六代、浄栄が七代となっていますが、これは兄弟関係で準養子になると思います。宗淳室と大村盛房室は生年に四十三年、宗陽とは四十六年の隔たりになるので、大村盛房室と八代宗陽は浄栄夫婦の子としました。
信明室と宗陽の生年は四十二年の隔たりがあるので、宗陽の子が信明としました。おそらく、宗淳が大福初代となるので、難波九右衛門妻の父中大福初代庄屋三郎兵衛とはこの人だろうと思います。信明室と三郎兵衛(改深井増左衛門)の生年は十四年の隔たりしかないので、信明と三郎兵衛(改深井増左衛門)は兄弟関係で準養子となるのでしょう。信明室と信興室の生年は三十五年くらいの隔たりですから、信明と信興は親子で良いのでしょうが、肝心の信興の墓碑がありません。佐藤S氏が、シロサトウの先祖に世を捨てて日應寺の僧侶になった人がいると云われましたので、信興のことかと思って日應寺の住職墓を訪ねてみましたが戒名と歿年月日しか彫られていない墓碑ばかりで手がかりは得られませんでした。
房重の日記に書いてあるお秀の子の内、末子松五郎の生年(寛政八年)から文久二年まで六十六年、数えで六十七才となり、東左衛門信吉に一致します。難波氏はやはり中大福庄屋難波氏の誰かでしょう。信興とお秀の長男と三男は分家するか他家に養子にでも出たのではないでしょうか、房重の日記に出てくる次男五蔵のお墓は歴代の墓の中に立てられています。
信吉と顕寿の生年は二十二年の隔たりですから親子と考えて良いと思います。信治と顕寿の生年は一年違いです。信治は唯一、院居士号を持ち、江戸で死去とありますので、藩に出仕して仕事で江戸まで行って事故か病死でもした人ではないかと想像します。

倉敷市史に掲載されている難波家系譜によると忠右衛門(勝之)次女八重が当村当左衛門妻とあります。忠右衛門(勝之)長女喜和は山田村庄屋良祐妻となっていて、山田村良助室の墓碑「都宇郡大福村難波忠右衛門長女明治十二年歿年七十九」と一致、喜和と八重の年齢差は三才になります。明治十二年歿の三郎兵衛と合祀されている吉田彌市兵衛娘ですが、北大福庄屋吉田家の墓地に「文政六年卒 吉田彌一兵衛義清享年五十歳」という墓碑があり、これが佐藤信吉の親くらいの同年代になります。妹尾の浦田家の墓地に「信忠通称九郎太都宇郡大福村佐藤三郎兵衛二男也文政六年生」という墓碑があって、浦田信忠より佐藤信治が二、三才上になるので、信吉長男が信治、次男信忠、三男が相続して三郎兵衛を襲名したと考えました。つまり、明治十二年歿の三郎兵衛と合祀されている吉田彌市兵衛娘は佐藤信治、浦田信忠、佐藤三郎兵衛(顕寿)の実母だと思われます。合祀された男女を全て夫婦と考えると間違うこともあります。更に、吉田家の墓地に「安政四年卒 佐藤三郎兵衛信光娘於政」という墓碑があったことを原様から教えていただいています。夫の歿年月日が彫り込まれていないことから、おそらく妻がとても若くして亡くなったのではないかと考えられ、於政は明治十二年歿三郎兵衛兄弟とほぼ同年代になるようです。吉田家から義清の娘が佐藤家に嫁ぎ、その娘がまた吉田へ縁付く、やったりとったりという重縁があったのではないでしょうか。
明治十二年歿三郎兵衛の妻として駒井家過去帳に記されているお鹿の墓碑は、大福の小村山にはありません。おそらく東山の佐藤家墓地に建てられているはずです。
佐藤から狩谷家に養子に行った硬の戸籍に、「佐藤太治作次男明治元年生 藤井千賀養子養母千賀死亡により明治十六年戸主となる」となっています。清治は硬の二、三才下になりますが、妹尾字小村の墓地所有者として登記簿に記載がありますので、家督相続をした人には違いないようです。
駒井家過去帳には、直右衛門信治と明治十二年歿三郎兵衛とその妻、合計三人の記録があります。また、駒井家墓碑に「甚十郎明治廿六年歿年八十二 室於りか佐藤氏安政五年歿年四十三」というものがあるので、明治十二年歿三郎兵衛の娘が於りかであろうと早合点していました。ところが年数を合わせてみると直右衛門信治と於りかを兄妹とするには無理があることに気付きました。駒井家の系譜を再調査してみる必要があります。

さて、このシロサトウ家はいったいどういう歴史を持つ家なのかを考えてみました。

現在も岡山市妹尾から大福にかけて佐藤姓の家がたくさんあります。S氏は次のように説明されます。
「一族の祖は祐金方之で、文禄元年に妹尾に来て定住しました。祐金に四男があって、上から三子は妹尾に住み、四男は津高郡建部町三明寺に移住しました。現在の建部に約六十軒の佐藤姓があり、妹尾大福方面に百八十軒ありますので、今から約四百五十年前の一人の先祖から派生したと考えるのが、算術的にも辻褄が合うのかも知れません。」
三明寺に移住した一族の子孫のもとに保存されていたという系図によれば、佐藤家は大職冠藤原鎌足に始まる藤原氏で、西行法師や源義経の家来佐藤継信・佐藤忠信兄弟も同族先祖となっています。

妹尾の地は平家物語で活躍する太郎兼康が知行した所として知られています。しかし、妹尾姓が岡山県内に比較的多いにもかかわらず、妹尾及びその周辺を避けるように分布しているのはたいへん不思議です。
妹尾には、平安時代の昔、保元の乱で敗れて讃岐国で無念の死を遂げた崇徳上皇の霊を弔う真言の法華堂が建てられたそうです。保元の乱は1156年で、1184年に60才くらいで死去したという太郎兼康が壮年の頃ですから、法華堂建立には太夫兼門、太郎兼康父子(血縁的には伯父甥という)が深く関わったと考えられます。

この法華堂の場所は現在の妹尾盛隆寺にあたりますが、この寺の周辺から裏山にかけてこの近辺から大福に至るほとんどの家の墓地が建っています。もちろんその中に江戸時代の妹尾姓を刻んだ墓碑もありませんから、凡そ四百年位以前からこの地方に妹尾姓はなかったと云えます。盛隆寺周辺の墓地を何度も歩くうちに、本堂西側が最も古くから墓地に利用されていたのではないかと気づきました。というのは、年代的に古い墓が面積に比して多く、一部は片付けられそうになったり埋まったりしているからです。その中で一番多い姓が佐藤のようです。

方々を歩きますが、江戸時代以前のお墓を見かけることはたいへん希です。岡山県北の名族有元氏(菅原道真の後裔という)の先祖墓は平安時代の円墳から確認されると聞いています。歴史の教科書に出てくるような鎌倉・室町から戦国時代の武将の墓と云われるものは日本各地の点在しています。戦国時代末期になると地方で活躍した武将くらいでもお墓が遺っていることもありますが、その他大勢の無名の先祖達のお墓はいったい何処にあるのでしょうか?江戸時代以降のお墓の片隅に戦国武将の墓の一部だったと思われる小石が転がっている風景は時々見かけます。古墳の斜面が墓地になって利用されているのも見かけます。時代が変わり人が替わっても、お墓を造ろうするときの場所選びはほぼ同じように繰り返されてきたのではないでしょうか。つまり、墓地の上に墓地が造られて行く、墓地を発掘すれば更に前代の墓地が出てくる所もあろうかと思います。もちろん文字を彫られている墓碑など出てくることはないでしょうが、遺骨は時代毎に層になって出てくるのではないでしょうか。

そういう眼で盛隆寺本堂東側の墓地を眺めると、平安の昔にこの地方で勢力を持っていた妹尾太郎兼康の一族が、いつの頃か佐藤と名を替えて住み続けたのではないかと思うようになりました。妹尾氏も佐藤氏もともに大職冠藤原鎌足に始まる藤原氏であること、また藤井硬氏が語った「(佐藤の)先祖は妹尾の城主だった」という伝説でも裏付けされるように思えてきました。シロサトウ家の稲荷様の瓦や紋佐藤家の江戸時代の墓碑(傘の部分)に「十六枚菊」の紋章が入っていることと、妹尾太郎兼康が白川天皇のご落胤であるという伝説も何か符合するように思われます。この地域は江戸時代の戸川家の陣屋が置かれる前の領主についてほとんど判っていません(都窪郡誌)。

「妹尾千軒皆法華」といわれますが、これは江戸時代にこの地こを支配した戸川家が熱心に住民を日蓮宗に改宗させたためだと云われます。しかし、ほんとうにそれだけの歴史でしょうか。
中世の備前国内を日蓮宗一色に塗りつぶそうとした備前金川城主松田氏の興亡を記した戦記物には大村家の先祖と共に佐藤姓の武将が登場しています。文明十五年に、赤松政則と松田元成の間の緊張が高まったときの松田方武将(家臣)に、伊賀修理亮、藤田備前守、佐藤式部、大村弥五郎などの名があります。
佐藤T氏は、妹尾(大福)の佐藤家は金川方面を経由して南下したと云われましたし、佐藤祐金方之四男は津高郡建部町三明寺に移住しています。妹尾と金川方面は中世に既に密接な関係があったと思われますし、松田家の日蓮宗信仰の勢いは妹尾地域を完全にのみ込んでいたと考えられます。

佐藤継信・佐藤忠信兄弟の父基治は、奥州平泉の藤原秀衡の下で、信夫、伊達、白河あたりを支配していたそうです。奥州藤原氏は、京都の藤原氏の後ろ盾に、領地の所有権を確立して行きました(荘園)。この後ろ盾は、武家政権になると「本領安堵」という言葉に替わりますが、要するに、自分より強い者によって土地の所有権を保証して貰うということです。基治は奥州藤原氏の私有地管理を任され、佐藤庄司と呼ばれたそうです。妹尾の佐藤一族の中に所司と改姓している家があるのもそういう歴史にもとづくようです。
ともかく、京都からずいぶん離れた東北地方も荘園の管理運営という目的で京都との間で人や物が行き交っていたのは間違いなく、京都の藤原一門に属する佐藤基治の家も元々京都の出身であったでしょうし、備中の妹尾太郎兼康の家にも同様の関係式が当てはまると考えられます。


ホームページへ