瀬良家
浅口郡七島村嶋地
平井家の系図を検討するために墓地を訪ねました。系図には、八十七盛實娘
「おこと 浅口郡七島村之内嶋地瀬良芳介妻に遣す」
と記されています。少なくとも歿年月日と享年、戒名は知りたいと思いましたが、芳輔(芳介)常欣の墓碑が何とか判っただけでした(上写真手前の丸い石が礎石)。
墓地は現在、山県氏の所有林中にあり、山県氏からもいろいろ教えていただきました。
ご子孫の行方が判りませんので、お心当たりの方はご連絡をお願い致します。
猶右衛門吉香――+――太兵衛 ――竹右衛門常往――+――芳輔常欣 ――春洞常雄――春雄 ――是助 延享5 | 天保6 | 天保4 明治13 明治40? 室 | 室友沢氏 室加藤氏 | 室平井氏 | | +――久里 +――吉郎治 吉田忠言妻 安政6 室
金光町上竹からこの地方の干拓後に出て来ているようで、檀那寺は鴨方町の明王院です。
古い墓碑は磨耗したり倒れて碑文が判読出来ないものもあり、元禄二年歿の徳峯覚真信士(俗名不明)、或いはその一代位前から嶋地に居住していたのかも知れません。上記系図は俗名の判ったものだけを並べていますが、覚真信士は猶右衛門吉香の祖父くらいになるはずです。太兵衛の墓碑も同定出来ませんが、友沢家の系図と吉田家の墓誌を参考にすると上記のようにつながるはずです。墓誌から太兵衛、竹右衛門常往、芳輔常欣のつながりは証明出来ます。
他に宝暦四年歿の「俗名道家文右衛門」という墓碑がありますが、「道家」は姓なのか号なのかもよく判りません。
吉郎治は生年を比較すると芳輔の弟くらいになるはずですが、墓碑には妻の欄が空けてあります。
春洞常雄は明治十三年歿(山県氏調)、常雄男駒太郎(夭死)の生年から、七十才前後で亡くなったと思われます。墓地を案内して下さった岡本氏(大正十四年生)によれば、「自分より一世代前の人の兄弟が五才頃に発熱して春洞先生に診てもらった」とのことです。「こと」は春洞の母親になるのでしょう。春洞は荒神様の下の辺りに住んでいたそうですが、一男一女があり、息子春雄は都窪郡妹尾町に移り住んで明治四十年頃に死去しています。
墓地には、「昭和十一年五月再起 伊澤竹衛 増田小太郎 瀬良是助」と刻まれた先祖供養碑がありますので、是助を春雄の子としてみました。春雄の墓碑は妹尾にあるのでしょうか、その後また妹尾から余所へ転住したとすると、嶋地の墓地のことは子孫に完全に忘れられてしまったのかも知れません。
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