渋谷家
下道郡岡田村森
私の曾祖母の実家渡邉家の家系図冒頭にある片岡家の系図中、「岡田之里森と申す所渋谷武右衛門娘」という人が出てきます。
果たしてその家は健在だろうか・・・?と思って、渋谷家を捜してみることにしました。
まず、地図で岡田之里森という地名を捜します。住宅地図に昔の小字名が載っていることがあります。新森、旧森という地名がありました。次に、電話帳ソフトで真備町岡田の渋谷氏を拾い出しました。この地番をみながら住宅地図で家の位置を確認します。うまい具合にいくつかの家が見つかりました。次に、その家の近くの墓地をやはり住宅地図で捜します。付近に墓地を控えた一軒の家を探し出して、その家を訪ねてみました。墓地は地図で見ていた場所とは違いましたが、
「明治以降の火災で古い書類や道具類が焼けてなくなっています。古い墓地は神社の近くにあり、寺の裏にも最近の墓地があるから行ってみて下さい。」
とのことで、さっそく両方の墓地を訪ねてみました。
寺の裏山の墓地に、
「**自宝信士 渋谷武右衛門、明和四年*月*日」
という墓碑を見つけ、小躍りして喜びました(上写真)。他の墓碑共々一通り調べてから、帰り際にまた墓地を教えて下さった家にお礼を云いたくて立ち寄りました。見つかった墓碑の場所をお伝えすると、奥から出てこられたおばあさんが、
「ああ、それならうちじゃのうて、辻田の渋谷です。」
と云われました。さっそくそのお宅を訪ねてみることにしました。
事情を説明すると、仏壇の位牌を出して広げられました。その中に、古い位牌を整理されたかと思われる集合位牌があり、
「八日、**慧聴信女、片岡伊兵衛妻俗名ろく」
という板位牌をみつけて驚きました。この人がまさに「岡田之里森と申す所渋谷武右衛門娘」だったのです。
神社の近くにある墓地はきれいに整理されて、中央に一つの先祖供養塔があります(上写真)。この側面に彫られた碑文を読んでみました。
美作国の三星山(城)に渋谷四郎右衛門義国という人が居ました(勤務していました)。その弟は出家して良善と名乗って、備中国下道郡園庄中村櫻光寺に居ました。天正十年二月、義国次男権太左衛門正蓮は叔父良善の命で、同庄森に来て農業をして暮らすことになりました。三代目正隅に三子があり、嫡子九郎右衛門正吉が跡を継ぎ、二子がそれぞれ分家しました。正吉の後裔正重に至り、浅口郡玉島(阿賀崎新町)に住んで商業を始めました。従って、正重までの墓はここに、その後代は本覚寺にあります。正隅次男又左衛門祐正から七代目の良助正賀は、園庄森が度々水害に見舞われるため辻田谷に移住しました。祐正から正幸までの三代の墓はここにあり、正幸次男宜智は森泉寺山の後に葬られました。正隅三男喜三郎義蓮から四代目の六兵衛宗正は、領主岡田候に仕えて士となりました。宗正に嗣子がなく、養子好右衛門根屋が跡を継ぎました。根屋にも嗣子がなく、養子権平が跡を継ぎましたが、権平は故あって江戸在勤中に退去して家は絶えました。義蓮から宗正までの四代の墓はここにあり、好右衛門根屋は森泉寺山の後に葬られました。年月を経て、古い墓の文字が摩耗してきたので、ここに塔を建てて先祖の名を刻むことにした。 天保十一年九月玉島の渋谷惣兵衛がこれを建てる。
供養塔の台座には初代権太左衛門正蓮以降の歴代当主と歿年月日、法名が記されていて、両方を見比べて行くと江戸時代前半までの系図は簡単に描けます。
権太左衛門正蓮――喜三郎則正――三郎左衛門正隅――+――九郎右衛門正吉――九郎右衛門正信――與七郎正宝――+ 文禄1 慶長16 寛永16 | 寛文6 延宝4 正徳5 | | | +――又左衛門祐正 | | 分家 | | | +――喜三郎義蓮 | 分家 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +―― 正重――+――惣兵衛正盛――総兵衛正珍――+――藤二正光 | 安永7 寛政8 | 文化2 | 室横山氏 室加藤氏 | | 室 室渋谷氏 +――惣兵衛正誠――惣兵衛正義 | 室前田氏 天保3 | 室嶋居氏 室瀬尾氏 +――女 渋谷正興妻
玉島移住後の墓を捜しに本覚寺に度々脚を運びましたがなかなか見つかりませんでした。私から六代前の祖母の実家岡本屋太田家をはじめ、他の縁戚関係をたどると行き着く幾つかの家の墓がありますから、当初は簡単に墓は見つかるものと考えていました。しかし、その慣れたところという気持ちに足をすくわれました。渋谷家の墓地は福田家の隣にあり、付近には菊池、三宅両家の墓所もあって、この辺りはもう調査済みという気持ちがありました。しかも、これらの家の調査を行った十数年前、まだ周囲にまで目をやる余裕もなく、渋谷家墓所はどうやら鬱蒼とした木々に覆われていたようです。平成二十年になり、菊池家墓所の写真を撮り直そうと訪ねたとき、今まで注意していなかったところに墓が並んでいるのに気付きました(下写真)。
覗き込むと「渋谷」という文字が見えます。一通り墓誌を控え、それから隣を見ると石段が築かれています。でも墓はありません、鬱蒼と木が茂っています。目を凝らして奥を覗き込むと、その木々の向こうに大きな墓石が見えます。草木をかき分けて進むと「渋谷」という文字が見えます。日を変えて木々を伐採して碑文をチェックしました(下写真)。こうして出来上がったのが上の系図です。
神社近くの先祖供養塔を建てたのは惣兵衛正義になるようです。正盛の墓には「下道郡辻田村森園産」とあり、渋谷家に祀られる正蓮の位牌に「薗森元祖」とあります。かつて、有井、市場、辻田、岡田あたり一帯を薗村(曾能郷)と呼んだそうです。
正珍妻と記された墓碑は、下道郡川部村加藤善太夫正忠娘、賀陽郡田中村前田氏女だけですが、下道郡森園住渋谷正興娘も歿年からみて正珍妻としてここに埋葬されたのではないかと考えました。正光は正珍嫡男で三十八才の若さで死去しています。ここまでが上の段に、正誠以降が下の段に埋葬されています。正誠妻は「備後尾道嶋居氏女」とありますから、住屋島居一族に違いありません。
さて、この家は絶家しているのでしょうか、子孫が何処かに健在でしたら、この墓地のことを思い出してもらいたいです。
又左衛門祐正――三郎左衛門正弘――惣兵衛正幸―― 宜智――+―― 正興――+―― 正親――良助正賀――+ 万治2 寛文4 享保15 安永5 | 安永5 | 天保13 | 室守屋氏 | 室渋谷氏 | 室川口氏 室 | | | | +――武右衛門 +――紋 | 明和4 | 渋谷正珍妻 | 室 | | +――正徳 | 分家 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――貞之 ==元太郎 ==茂吉 ==桂治 ――+――昌一 天保4 岡氏 三宅氏 片岡氏 | 昭和18 室 明治12 昭和32 昭和11 | 室家女 室家女 室家女 +――英男 | 昭和18 | +――富子 丸岡審三妻
寺裏の墓誌を整理しながら上記のように組み立ててみました。
他に、
「**了圓居士 文政元年 川口外守春偕」
という墓碑がありますが、これは正親妻の血族で、何かの事情があって岡田村で死去した人だろうと思います。
茂吉の実家は最初に私を片岡家(丸岡の本家)墓地に案内して下さった三宅氏の家と聞いて、不思議な縁を感じました。
森泉寺裏の墓誌はあまり詳しくないので、肝心の武右衛門が歴代のどの位置になるのかということは正確には判りません。
渡邉家(分家石橋)に残された過去帳を再検討すると、武右衛門の他に宜智夫婦と正興が記されていることも判りましたので、正興と武右衛門が宜智夫婦の子と考えるのがよいと思います。
正徳から後は、
正徳==通盈正義――正孝 ――正 文久2 鈴鹿氏 昭和3 大正12 室 明治12 室山名氏 室
通盈は備後神辺村鈴鹿氏次男、この人は元太郎の親の世代ですから、正徳は正親の兄弟と考えました。
義蓮から後は、
喜三郎義蓮――忠兵衛舎正――権兵衛正昌――六兵衛宗正==好右衛門根屋==権平 寛永16 貞享3 享保3 享保17 安永4
岡田藩資料に、権兵衛、六兵衛、好右衛門の勤務記録が残っています(渡邉隆男氏提供)。
ところで、最初に墓地の場所を教えて下さった渋谷氏はいったいどういう関係になるのだろうかと考えてみました。神社の近くの墓地では、供養塔に向かって左手(供養塔からみると右手)がこの家の墓です。中には戦国時代に建てられたと思われる五輪塔の一部があります。碑文が読めるものを拾いましたが、享保年代の自然石もありました。供養塔からみて右手(上座?)に位置しているのも重要です。寺裏の墓地でも、渋谷一族の東の奥まったところ(上座?)に墓地があります。こうした状況から、この家は正蓮の叔父良善につながる一族ではないかと思います。
渋谷家の始祖権太左衛門正蓮は作州三星山に居たとありますが、正蓮の生きた時代には三星城主は後藤氏でした。「新釈美作太平記」を開けてみると、戦国時代末期の三星城攻防戦に、三星勢として渋谷という名が時々出てきます。また、古くは南北朝の動乱の頃に、渋谷権太夫という人が南朝方として六十余人の兵を引き連れて他の武将と共に都に向けて進軍したと書いてあります。また、「太平記」巻八には、「美作国には菅家の一族、江見、方賀、渋谷、南三郷」とあります。
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