清水(間野)家・久保屋
窪屋郡生坂村
倉敷市史第八冊(永山卯三郎編)、備中の部、村役人一覧(1143頁〜1149頁)、及びこの原稿を書いた間野尚明家の系図を参考にして、一族の墓誌、位牌、過去帳を元に作成したのが下記の系図です。
源左衛門貞家以降は位牌も過去帳も揃っていて歴代当主のつながりは間違いありませんが、それ以前は十分な検証が出来ていません。。
源 清水 義仲――太郎義高――左近義季――+――女 寿永3 文治2 寛喜1 | 早世 室中原氏 室頼朝娘 室三浦氏 | +――左衛門為頼――四郎左衛門義治――+――五郎左衛門治興――+――女 弘長3 永仁6 | 元徳2 | 首藤清次妻 室新田氏 室佐藤氏 | 室楠氏 | | +――希一郎貞興――源太郎義信――+ +――六郎義教 | 貞治6 應永16 | 新田家嗣 | 室江間氏 室大友氏 | | | +――二郎高信 | 住河内国 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | 間野 +――慶之介義員――八郎高貞――源太兵衛貞氏――+――徳兵衛貞元――+――源次貞時 永享12 長享2 | 天正10 | 間野家嗣 室佐々氏 室畠山氏 室蒲生氏 | 室日畑氏 | | 室佐々木氏 +――源左衛門貞宗――+――源左衛門貞家 ――+――作兵衛家明 | 文禄1 | 寛永11 | 黒瀬家嗣 +――若狭守 室京極氏 | 室黒瀬氏 | 分家 | +――治郎兵衛貞・――+ +――女 慶安5 | 犬飼孫左衛門妻 室 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――友仙 | 元禄1 | +――文左衛門貞・――+――源太兵衛貞秋 ==利八郎貞ェ――+――多利助貞義 ――+――槙 | 元禄5 | 享保4 石原氏 | 寛政14 | 中島宣光妻 | 室岡氏? | 室小川氏 宝暦11 | 室井手氏 | | | 室貞秋娘 | +――茂利治貞本――文太夫貞秀――+――久良 +――女 +――お以ち 室篠井氏 +――さき | 嘉永6 明治2 | 守屋元秀妻 土岐光房妻 | 国富九郎祐妻 | 石原常英妻 | 室太田氏 室則武氏 | | | | 室守屋氏 | 清水 +――知亮 +――數治郎清ェ +――茂兵衛 室難波氏 +――利太郎貞基――+ 東雲院主 | 宝暦8 | 赤堀家嗣 明治29 | | | 分家笘屋 室梶谷氏1837 | +――女 | | 富田七右衛門妻 +――清 | | 藤井飯瓶妻 | | | +――女 | | 友野國清妻 | | | +――勇次 | 安永9 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――良一郎 | 安政4 | +――石太 ―――+――稼太郎 ――+――晋一郎 ――・一 | 明治27 | 昭和13 | 昭和20 室松原氏 | 室渡邉氏 | 室江田氏 | 室行森氏 | | | +――松野 +――斐 +――良平 守屋金造妻 | 溝手基太郎妻 | 溝手重吉妻 | | +――淑子 +――三郎 | 溝手萬之助妻 | | | +――真喜 +――弘平 明治27
尚明家系図には清和天皇から記してありますが、義仲の父義賢までは一般歴史書に詳しいので省略しました。義高は十二、三才で頼朝に殺されたことになっています。系図には義季の母も頼朝娘とありますが、八才の娘が子を生むことはありません。
ただ、義季は義高が討たれて数ヶ月後の○月○日に鎌倉で生まれ、尾張国熱田大宮司家に匿われ、成人して近江国佐々木氏に仕えた。亡くなったのが寛喜元年○月○日であるとまで書いているので、全くの架空の人とも思えず、義仲の末子(季子)か、姉妹の子が義高の跡を継いで清水姓を名乗ったのではないかと考えています。
系図に、義仲の妹「於菊姫 頼朝之養女ト成之鎌倉江下ル」の記述はありますが、義仲の子、兄弟姉妹、甥や姪など近親者についてはよく判っていません。
為頼の母は三浦義景娘、伯耆守義治の母は新田義宗娘、治興と義教兄弟の母は佐藤元信娘、いずれも歿年月日の記録があります。多くの諸家系図を見てきましたが、この時代にここまで書いている系図は珍しいです。
六郎義教は、
「新田義一養子ト成十四歳時初陣上州今戸ニ而敵将五人討取尚足利氏与戦建武三年五月足利氏之兵東犯ス湊川ニ而無比類戦功度々有之宇治盛重与組打討ル行年三十二才」
とあり、昭和十年五月、尚明は「南朝忠臣清水義教卿六百年祭挙行供養」を行っています。
当時、一族は南朝方であったのか、希一郎貞興の母は楠正員の娘、正員は正儀従弟とあります。
義信の母は江間頼時娘、
「應永十六年九月十七日備中松山城主三村親治謀状ヲ以小早川隆景戦謀注進十月二十七日出陣」
この辺りから中国路の勤務が始まったようです。
義員の母は大友有久娘、高貞の母は佐々康政娘、貞氏の母は畠山義持娘、貞元の母は蒲生氏とあり、近江と備中での合戦参加から備中での記述が増えていきますが、倉敷市史の記述と若干差異が見られます。
近江佐々木氏の力の象徴だった観音寺城が信長の侵攻で落城すると、源左衛門貞次、貞家と二代にわたり、備中成羽竹井家へ仕えています。竹井氏は近江国番場寺の過去帳(鎌倉末期)に見られる備中の豪族ですから、その縁を頼ったのでしょう。
更に、貞家は、
「備中成羽竹井家敗北シ而同国賀屋郡宮内ニ落去後亦元和元年窪屋郡東阿知鼻ニ住ス」
とあります。
清水家所蔵の「生石帯刀同治勝家系」という文書の存在から、貞家は、その後宇喜多家の将生石治勝配下となり、元和元(1615)年、生石氏から安堵された備中国窪屋郡東阿知村(後の生坂村、現在の倉敷市生坂)の阿知ヶ鼻(現在の端生坂)に帰農して村の庄屋役を勤めたようです。妻は東阿知村の黒瀬氏となっています。
この源左衛門の名が入った元和六(1620)年の古文書が現存しています。山根川という高梁川から取水する農業用水路の使用に関して、上流管理役の子位庄村(窪津)又太夫、又右衛門に対して、(高尾)弥兵衛と連名で宛てたものです。
水は稲作にとって最もだいじなものですから、昔から水をめぐる争いは絶えませんでした。水の喧嘩は死者が出るほど激烈なものだったといいます。このような争いに対外的交渉にあたったのは村の名主(庄屋)でした。
なお、この文書は現在の倉敷市生坂がかつては「東阿知村」と呼ばれていたことを示す貴重な郷土資料でもあります(参考)。
吉備郡誌の庄屋一覧に賀陽郡川入村(岡山市川入)の庄屋犬飼家初代孫左衛門(寛永十三年歿)の妻が生坂間野氏となっています。清水家所蔵の「生石主水治家同帯刀家系」という文書末尾に、治勝家人として犬飼某と間野源左衛門の名が見られますので、源左衛門貞家の姉妹が犬飼家に嫁いだのではないかと思われます。
源左衛門貞家の妻からはじまり、治郎兵衛、文左衛門、源太兵衛、各々の夫婦の戒名に、二代、三代、四代と付記された過去帳の切れ端が遺っていますので、定住初代から現代までの直系当主の続柄に間違いはありません。源左衛門貞家以前は紛失したようです。
友仙は本名ではなく号のようですが、初代、二代夫婦と共に合祀された位牌がありますので、上記の位置に入れています。この位牌はおそらく、鼻生坂間野家(現在の清水家)が本家であると歴史に残そうと意図して、後代に作り直されたもののようです。
尚明家所蔵系図によると、源左衛門貞家の長男作兵衛(多左衛門)家明は、母の実家黒瀬家を継ぎ、次男治郎兵衛(次郎兵衛)が本家を相続しました。
定住十一代稼太郎の妻多喜野から扇形に拡がる先祖とその血縁者を調査していく中で、岡山市富原の土岐家系図に出逢いました。土岐與左衛門光房妻が間野氏とあり、その娘薫が三田守屋来右衛門に嫁ぎ、更にその息子が守屋家を相続したことが記されていました。この守屋家は三田の槇山守屋家で、清水家やその株家間野家、重縁関係にある石原家とも度々縁戚関係を重ねた家ですから、土岐光房妻を上記系図に組み込んでみました。
文左衛門妻は西坂石原家の過去帳(福田新田之過去帳)に「岡 娘」と注記があります。石原文左衛門貞義妻の下にも「西阿知 岡 娘」と書いてあり、三田守屋家の忠左衛門直宗妻が同世代で、墓碑に「岡助左衛門娘」とあるので、前後の縁組みも参考にして、浅口郡西阿知村で助左衛門を襲名して庄屋を勤めた岡家と考えています。
文政九年改 (省略) 寛政十一己未六月十日 一 訶變妙幢大姉 同二十八年 福田古新田開主 西坂屋石原茂一兵衛ニ嫁ス 同 十一己未八月廿三日 一 観住院智貞大姉 同二十八年 天城中島氏ニ嫁ス 文化元甲子九月五日 一 榮室妙艶信女 同二十三年 岡谷友野氏ニ嫁ス 寛政九丁巳七月十七日 一 法受院宗継信士 同三十年 回縁瀬戸 文化二乙丑六月十三日 一 樹香妙宗信女 同二十二年 直縁、井手、井手氏 文政三庚辰六月五日 一 宝蓮浄華 同七年 岡山富田氏ニ嫁ス 同 五壬午五月十二日 一 観室妙静 同五年 大坂藤井氏 同 九丙戌三月十日 一 止真院闥B 尾上直縁則武氏 同年 六月八日 一 普明貞覚大姉 玉嶋太田氏、直縁
いずれも清水家の墓地に眠っている人ではありません。
妙幢大姉は多利助の妹「さき」ではないかと考えています。倉敷市古新田の石原家墓地にお墓が建っています。
「寶蓮浄華」の墓碑は、岡山市東山斎場東の丘陵で偶然見つけました。岡山大雲寺町の名主ですが、明治になって稲富と改姓しています。
妙静は茂利治妹清の娘で、大坂間野家の過去帳に記録があります。
「十二日 観室妙浄信女 文政五年五月 俗名幾女 貞英姉」
直縁というのは血縁、回嫁というのは血縁ではないが親族という意味でしょうか。法受院宗継は別の過去帳にも記載があり、
「作州瀬戸伯父金田弥七郎五十四」
とあります。茂利治の義伯父になるのかも知れません。
妙艶信女は清水家の系図上の位置はよく判りませんが、茂利治の姉妹とするのが年代からみて妥当だと考えています。岡谷村の岡の庄屋友野勇右衛門国清後々妻とありますから、当時の一般として、友野に嫁ぐ前、他の二家に嫁いでいたはずです。当時、男性が再々婚ならば女性も再々婚というように婚姻回数を合わせる傾向があったようです。
清水家所蔵の書類に、
「 大阪定安町旧半鐘ノ下 藤□
俗名藤井定次郎死去年月不□
間野茂利治甥ナリ是モ當家出
テ大阪ニ行商法家タリ」
と記されたものがあります。
これは茂利治妹「於清」葬列において、笘屋瓶八に並んでいる藤屋定次郎と考えられます。瓶八の身分喪服と違うカリモフク(仮喪服)を着用しているので「於清」の子ではなく、同姓の別の家ではないかと考えられます。
「當家出テ大阪ニ行」というのは、備中生坂の間野茂利治の家に同居していたが、その後大坂に出たという意味です。
友野国清後々妻として亡くなった人が、不縁となった婚家でもうけた男子を茂利治が引き取って育てたのが定次郎ではないかと考えています。
富田家と末廣家の縁を検討したところ、浄華は茂利治の叔母くらいになると思われます。
茂利治の妻澤は備中浅口郡阿賀崎新田村(倉敷市玉島)の呉服商岡本屋太田宗七郎忠孚の長女です。太田家の墓地は玉島の円通寺にありますが、ここには澤の記念碑が実家の手で建てられています。
文太夫は則武與四郎勝英の次女婦喜を妻に迎えますが、婦喜は長女久良を産んだ後に早世します。久良は浅口郡乙島村守屋家に嫁ぎますが、事情があって離縁復籍したようで、実家の墓地に眠っています。ついで、三田村の守屋周左衛門隆常の次女元を妻に迎え、長男利太郎が誕生しました。不幸にして元も若くして亡くなり、文太夫は三妻多嘉を迎えます。
利太郎は間野姓を廃止して清水に改姓していますが、明治三年の宗門帳には「貞基」という印を押しています。喜與の父源太兵衛以後、清水家の当主は代々諱に「貞」の文字を使っていることが確認できています。生坂村へ定住した初代源左衛門の諱は貞家、治郎兵衛、文左衛門の諱が不明ですが、やはり貞〜と云ったものだろうと思います。こういう拘った文字を通字と云います。清水家では、分家するときには親の諱のもう一つの文字を通字として貰って諱を名乗った様です。清水家の一番古い戸籍の当主は石太ですが、ここには「貞印」という印鑑が押印されています。こんなことも先祖を探るだいじな手掛かりになります。江戸末期から明治維新頃に改姓した家はけっこうあるようです。
清水家の一番古い戸籍にも前戸主清水貞基(ていき)とありますが、この前の戸籍は壬申戸籍といって明治五年に作られたものです。士、農などの身分が併記されているので、差別の種を撒くという理由で一般公開されていません。
利太郎の妻濱は長男石太と夫利太郎の相次ぐ死去にもかかわらず、実家の援助をうけながら気丈に家事を執りました。
下記は明治三年の宗門帳に記録された清水家の家族構成です(岡山大学池田家文庫)。
家族の構成員(牛を含める)の上にはその家の戸主の印(この場合は「貞基」)、合五人の箇所に名主「貞基」の印と旦那寺東雲院の寺印が押されています。
里正
名主
一 利太郎 歳三十八
妻 同三十四
子石太 同十三
娘まつの 同八
姉くら 同四十七
合 五人内 男弐人
女三人
牛壱疋
石太は菅生村副戸長として村の世話をしていましたが、村で伝染病が流行した時に、病人を避病舎に搬送中に罹病して三十七歳で亡くなりました。菅生(すごう)村は近隣の五ヶ村を統合した行政区域です。
父石太、祖父利太郎と相次いで喪い、稼太郎は梶谷家の勧めで進学することになりました。ずいぶん遅れて学業を始めています。
同志社中学、高梁中学(明治三十四年、第三回卒業)、第六高等学校(明治三十七年七月、第二回卒業)を経て、京都帝国大学法学部獨法学科を卒業(明治四十一年七月)しています。
高梁高校の卒業名簿、二十八名の卒業生中に行方不明者として稼太郎の名前があります。官立の六高進学のために本籍地の行政区域の公立中学へ編入したそうです。
六高は寮生活で、六稜寮史(大正十四年発行)によると、明治三十四年度北寮第一室九名の中にあります。
弁護士となり、大津など国内数ヶ所の裁判所勤務ののち、大正二年に朝鮮慶尚北道大邱(たいきゅう)府にて法律事務所を開業しました。
弁護士というと良い暮らしぶりを想像させますが、左派思想を持ち、ほとんど貧しい朝鮮の人々の弁護を請け負い、一家の生活は良くありませんでした。
晋一郎は大邱医専を出て、岡山日赤病院、愛媛県池田町立病院で小児科医師として勤務、その後、召集されて衛生部見習士官として転戦、南方ハルマヘラ島で戦歿しました。
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良平 ――+――秀一 平成10 | 室 室近藤氏 | 室清水氏 室吉本氏 | +――廣良 室渡辺氏
三郎 ――+――・子 平成29 | 四十九院・雄妻 室木村氏 | +――・子 菅谷・雄妻
弘平 ――+――慶一 平成31 | 室佐藤氏 室池田氏 | +――良子 長野・・妻
岡山県内には他に、総社市井尻野、西阿曽、同溝口、岡山市新庄、倉敷市矢部、高梁市阿部などに間野氏が、また、岡山市吉備津、同箕島、山陽町津崎、高梁市玉川町増原に真野氏があることを把握しています。
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