田淵家
磐梨郡下村
清和源氏新田族の裔十左衛門氏光が伊勢国田淵に生まれて姓を田淵と改めています。後に播磨国白旗城主赤松満祐の食客となり、嘉吉の乱の働きによって備前国赤坂郡宅美郷竹枝庄を貰い、大田村下谷に白石城を築いています。
氏光の次男傳左衛門氏晴は播磨国赤松氏に属し、子新右衛門久世の代に和気郡天神山城主浦上遠江守宗景の部将明石掃部助に仕えて磐梨郡梅保木城(赤磐郡万富村大字万富)に詰めていました。後に同郡下村(赤磐郡瀬戸町大字下)に帰農、與三右衛門久昌は宇喜多秀家に仕えて三百石、作州一宮城を守りました。宇喜多家の滅亡の後に、父の所へ帰り、名を清繁と改めて外科医を始めました。市右衛門久晴(赤坂郡伊田村内藤喜八郎弟 後改自繁)は享保三年三月、医師として備前藩主池田継政に仕え、年に米二十俵の給料を貰う身になりました。久美(邑久郡幸西村北村氏)は同十一年六月四日に七人扶持の俸給で郡医者に任命されています。
重郎左衛門氏光――+――源兵衛氏久 | +――傳左衛門氏晴――新右衛門久世――+――新右衛門久常 | +――與三右衛門久昌――+――権右衛門 | 分家 室 | 室遠藤氏 +――市右衛門久治――+ | 室 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==市右衛門久晴――+――道碩明敬 内藤氏 | 享保6 +==自繁久美 ――+――自繁美清 ――+――自得義陳 ――+――利衣 室久治娘 北村氏 | 明和6 | 文政6 | 柴原六郎右衛門妻 宝暦8 | 室 | 室山形氏 | 室 | | 室齋藤氏 +――豊次郎 +――宗澤美雅 | | | 光岡家嗣 +――曽與 +――絹 | 室光岡氏 | 岡島専介妻 | 福井喜之妻 | 室早川氏 | | | +――常 +――次郎 +――女 | 小橋信敬妻 | 北村彌右衛門妻 | +――岩吉 +――品 | | 山形半兵衛妻 +==順輔貞 ――+ | | 岡村氏 | +――忠左衛門 | | | 谷家嗣 | 室義陳娘 | | | | +――種 +――千世 | 北村藤九郎妻 | 山本淳亭妻 | | | +――鉄松 | | | +――岡野 | | 北村徳之介妻 | | | +――柾之介美一 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +==敬順義信――+――亀 福井氏 | 明治30 文久3 | 室貞娘 +――敬二義英――+――浩吉 明治33 | 室阿部氏 +――栄二 室木下氏 | +――滋野 | 中務毎治妻 | +――小鶴 | 延里逸治妻 | +==綾男 中務氏 室
宗澤美雅(立徳)は御野郡浜村光岡家の婿養子となり、後に岡山に出て部医となり五人口の俸給を貰って田淵に復姓しています、後室は水野主計の家臣早川近右衛門娘です。
義陳室は和気郡益原村山形新右衛門娘、後室は土倉氏家臣齋藤弥左衛門長女。
順輔貞は和気郡尺所村に岡村幸五郎順綱之末男で、二十二歳のとき自得の養子となました。文化十三年、及び文政三年、幕府の沿海巡察の際に医事を担当しています。
敬二は勤王の志士として有名です。嘉永六年、岡山城下柿屋町(磨屋町)の藩医平井立斎の門人となりますが、学問・医術よりも武芸を好みました。東京遷都に反対して愛宕事件に連座して捕えられ、国事犯として青森県弘前監獄に服役しています。立石正介、三宅高幸はここで獄死しましたが、明治十三年に減刑されて出獄、帰郷して開業医となりました。元プロ野球監督の幸一は敬二の曾孫になります。
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