田淵家
播磨国
延宝元(1673)年より「川口屋」という屋号で、塩田、塩問屋、回船業、大名貸などを営んできた家です。延享元(1748)年は藩の蔵元となり、苗字御免となっています。文化・文政の頃に家運は最盛となり、当時の所有塩田は106町歩、当時日本最大の塩田地主であったようです。平成6年10月に美術品、古文書類が赤穂市に寄贈され、それを展示保存する施設が、邸宅に隣接して建てられています。
展示品の中に、河野鉄兜(てっとう)筆「青鸞羽箒賛文(せいらんはぼうきさんぶん)」という書があり、慶應元年に田淵家(明遠楼)を訪れた時に書かれたものと説明してありました。
妹尾家のご子孫ら戴いたお手紙に、「妹尾道順妻は邑久郡車村河野鉄兜妹」と記してあったので、私の把握していた河野家系図と照合して、三淳=鉄兜と理解していました。
しかし、青鸞羽箒賛文の解説とうまく合わないので、赤穂市立図書館で河野鉄兜について調べてみました。すると、この人は、本姓越智氏、名は維罷、字は夢吉、通称俊蔵のち絢夫、号は鉄兜また秀野。播磨国揖東郡網干余子浜垣内(姫路市網干)の儒医の家に生まれたとありました。
妹尾家で、どうして鉄兜の名が出てきたのか未だに不明ですが、加里屋医師田淵家の墓地に並んで河野鉄兜と縁故の河野家の墓があることから(寺のご住職の談)、鉄兜の家と備前邑久郡車村の河野家は何か関係があるのかも知れません。
市兵衛政憲――市兵衛教智――九兵衛政久――市兵衛春元――九兵衛政武――九兵衛政俊――新六政信――貞作政明――+ 元禄5 享保1 享保13 宝暦10 寛政8 文政1 文化14 明治6 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――九平政整――元兵衛政和――新六郎政方――新作政敏――+――新一郎 天保13 明治28 大正8 | 平成6 | +――女 山路順吉妻
少し代数が多すぎるようですので、兄弟相続の準養子なども1代に数えてあるのだろうと思います。
ホームページへ