三室屋・玉置家
津山城下中之町
玉置家の先祖は美濃国出身平助という人で、津山に森家が入城した時に一緒に付いてきたようです。宗家を太布屋といい、五代源五兵衛宣忠の子宇左衛門教元が分家して興したのが三室屋です。
平助はお城に近い吉ヶ原町に屋敷を持って築城の手伝いもしたようです。福島正則が改易となったとき、広島城の受け取りを中四国十三の藩主に命令が下りましたが、その時に太布屋平助が莫大な鉄砲弾薬を準備して褒美に陣羽織を一領授かったそうです。
森家二代三代の頃に太布屋の富は次第にふくらんだようで、森家改易の頃、吉ヶ原町の北側に太布屋忠兵衛は大屋敷を持ち、同族の太布屋六郎左衛門も道を隔てた伏見町に大屋敷を構えていたという記録があります。
稼業は商売であったようですが、酒造も盛大に行っていて、森家改易の頃の城下の造酒屋八十一軒中、百石以上の醸造は太布屋一軒だけでした。
元禄年中、犬公方綱吉から森美作守長成に巨大な犬小屋建設の命が下り、領内の豪農、豪商から協力金が集められましたが、太布屋は銀十一貫を負担しています。
森家が改易された時、それまで家中の侍達に貸していた金や米はすべて不良債権となって、太布屋も相当な経済的打撃をうけたようですが、松平家が入封して間もなく御用聞(お金の調達役)の一人に挙げられ、元文二年九月、苗字帯刀を許可されて大年寄を拝命しています。宝暦九年の藩政改革のころ、蔵合、斎藤、玉置の三軒が大年寄を勤めていました。
綿実油の製造販売も玉置家の財源になっていたようです。これは繰綿にした後の種を搾って油を採るので、一般の燃料として有名な菜種油に比べて安いので庶民の灯火に利用されました。玉置源五兵衛がこれを始めましたが、あまりに儲かるためでしょうか、その後三十年ほど経てから藩の営業に移されています。
城下を通過する出雲街道の本陣を最初に拝命したのは大年寄蔵合孫左衛門ですが、松平家入封以後家産が衰えたために、替わって玉置源五兵衛が命じられました(享保二年ころ)。本陣を利用したのは、松江の松平とその分家、勝山藩、新見藩です。本陣の経営には藩や幕府から援助はありましたが、きまった額しか出ないので、大部分は経営者の持ち出しになっていたそうです。つまり、本陣を拝命するといういうことはそれなりの財力があったということのようです。勢いの良かった玉置家も、寛政十年に勝山藩主三浦志摩守が江戸からの帰路に泊まることになった時には、とても役目を果たす事が出来ないと断ったという記録があり、二階町で脇本陣を勤めていた茂渡庄右衛門が替わりに引き受けています。その後、茂渡から坪井町の三船八郎右衛門に引き継がれて明治維新に至っています。
寛政の頃、町民の風紀粛正のために町方支配層の中心となって献身的に働いたことも玉置家の業績であったようです。これは道徳教育ですが、後述の三室屋二代恵吉の徳行からも解るように、庶民町方教育に力を入れていたのも玉置家の業績として挙げられます。
こういう教育への関わりによって藩校の責任者永田家との付き合いが始まり、ついには縁戚関係を結ぶに至ったとも考えられます。永田家も玉置家も共に美濃から森家を頼って作州に移住した一族ですが、戦国時代はおそらく刀と鍬を持ち、江戸時代になってから侍と町人に分かれただけのものだと思います。
以上、「津山藩と玉置家の人々(玉置家三百五十年祭記念講演 郷土史家松岡三樹彦)」を参考に玉置一族の歴史をまとめてみました。
太布屋 平助元次――六郎左衛門忠次――源五兵衛忠興――六郎左衛門行忠――源五兵衛宣忠――+――源五兵衛昌敷――+ 寛永2 延宝4 貞享4 享保1 元文3 | 明和5 | 室 室 室山田氏 室 室 | 室 | | | +――宇左衛門教元 | 三室屋 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――六郎左衛門邦昌==源五兵衛光清==源五兵衛邦明――六郎左衛門邦道==修邦修 ――萬吉邦教 安永9 分家より 分家より 明治4 齋藤氏 大正2 室 寛政10 天保11 明治31
三室屋
宇左衛門教元――恵吉教篤――+==仁平教武 ――+――忠四郎教明――齊太郎 天明4 寛政5 | 中西氏 | 弘化4 室 室 | 文化10 | 室 | 室教篤娘 | | | 和泉屋 +――女 +――喜惣兵衛 | | +――女 +――五郎三郎 | | 生長家へ +――女 | | 若林正房妻 +――多美 | | 若林正旭妻 | 美濃出屋 | +――儀七郎 +――恵吉寛敬 ――+――頼太郎 | 安政3 | 永田家嗣 | 室生長氏 | | 室日野氏 +――貫吾教實――鶴吉 ==勉 | 明治15 大正10 教包次男 | 北玉置 室 昭和32 +――梯助 室美甘氏 | 嘉永7 | +――義兵衛 若林家へ
二代目の恵吉教篤はなかなかの人物だったらしく、「性格は謹厚慈恵で進んで窮民をあわれみ憂えた」とあります。神仏への信仰も厚かったといいます。中でも、亡くなる前に遺言をして白銀千枚(また銀四十三貫目とも)を藩に献上して「これで庶民が読める書籍を購入して欲しい」と申し出させたことは後世に伝えられ、「岡山県歴史人物事典(山陽新聞社刊)」にもこの偉業を中心に恵吉の紹介文が載せられています。藩主康哉は喜んでこれを受け入れ、宇左衛門(跡継の仁平教武のこと)に帯刀を許可。その弟儀七郎、清右衛門(美濃出屋)もそれぞれ扶持米三口を賜りました。
堺町美濃出屋
宗左衛門妙興――淳助忠貫――四郎助補守――+――恒治郎教義――嘉久治教包――+――完三 天保7 慶應2 文久2 | 大正11 大正2 | 昭和55 室 室 室 | 室 室 | 室国米氏 | | +――まさの +――勉 川口藤助妻 | 三室屋嗣 松田謙八妻 | +――敬爾 昭和9
一番古いのは宗左衛門妙興の墓碑ですが、三室屋の系図に書いた儀七郎が年代的に合致する様に思います。
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