戸川(富川)家
西北条郡津山戸川町


宇喜多直家の老臣戸川平右衛門(平介)秀安の父は備後國門田村の門田氏で、天文7年、平介出生後まもなく死去しましたので、残された母は平介を連れて実姉が嫁いでいる美作国富川宿(津山市戸川町)の富川禅門のもとを訪ねて平介を預け、自らは備前に行き、宇喜多直家の弟忠家の乳母の職に就きました。平介はたいへん聡明な子であったので、禅門の子となり、富川平介と名乗りました。その後、作州の兵乱で、富川禅門は殺害され、一族は散り散りになりました。この時、作州を脱出した平介は実母が奉公していた宇喜多家に身を寄せ、直家に奉公することになりました。平介の母は宇喜多家の計らいで、惣兵衛の妻となり、惣兵衛との間にも3男3女をもうけています。平介も母と共に岡家に厄介になりましたが、そのまま富川平介と名乗って宇喜多家に仕え、備前児島郡常山(玉野市)の城主となりました。この平介=平右衛門秀安の子が助七郎逵安(みちやす、後に肥後守)で、子孫は徳川幕藩体制下で庭瀬、撫川、早島の各知行所を与えられた旗本となりました。

富川禅門===平右衛門秀安(実は門田氏)―――助七郎逵安―――+
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+――正安――+――安宣――――――――+――安風
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|      +――安成(妹尾領主)  +――達富(撫川領主)

+――令安

+――安尤――重明――+――安貞
| (早島領主)   |
|          +――安通(中庄領主)

+――安利(帯江領主)

+――安吉

富川家は瀬戸内海で古代から栄えた越智(オチ)、河野氏の系統と云われ、河野通信の後裔稲葉通弘の4代後が富川禅門ということのようです。津山市を流れる吉井川はこの地方で古く「富川」と呼ばれていました。越智の子孫が川をさかのぼってきて、この地名を姓としたものだろうと思います。


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