木之子屋馬越家
小田郡吉田村





吉田村馬越家は後月郡木之子村馬越家の分家ですが、恭平翁の祖父と曾祖父の実家にもなります。

六郎右衛門吉也――道松信士――新八郎昌三――俊之利八――+――領八芳重――+――源助通信――+――伊右衛門
延宝4            享保16   安永7   |  寛政2   |  弘化4   |  文政9
室        室     室      室     |  室     |  室吉岡氏  |  室
                            |        |        |
                            +――牧右衛門  +――元貞通永  +――元寿通潔
                               高橋家嗣     馬越家嗣  |  馬越家嗣
                                              |
                                              +――源助  ――+
                                                 慶應3   |
                                                 室阿部氏  |
                                                       |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――源三郎 ――+――廉太郎
|  明治41  |  明治27
|  室阿部氏  |
|        +==喜八    ――+――敏二
|           仁科氏     |  大正10
|           昭和25    |
|           室源三郎長女  +――昇
|                      平成6
|                      室昼田氏

+――健次  ――喜曽太 ==豊
   昭和7   大正9   吉岡氏
   室阿部氏  室富田氏  昭和49
         室馬越氏  室喜曽太長女

初代六郎右衛門吉也夫婦の墓碑は戒名だけ刻まれていますが、法泉寺に同じ墓碑がありますので、吉田に建てられているのがコピー(記念碑)かも知れません。馬越恭平翁傳末尾の系図に拠れば、吉也は寛永四年に生まれ、小田郡吉田村に分産して屋号を木之子屋と称し、延宝四年に五十才で亡くなっています。
二代、三代は墓碑を参考にしましたが、
「○○道松信士
 ○○妙悟信女 元禄九年六月八日」
の夫婦が新八郎の前で、二代に相当するかも知れません。

恭平翁傳末尾の系図から、領八芳重以降の流れはほぼ判りますが、
「○○院速譽浄頓信士 享保九年・月・日高橋牧右衛門重墓」
というものがあり、芳重の兄弟としましたが、「速」という文字は若年死した人によく使われますので、芳重の子かも知れません。「重墓」はコピーという意味でしょうか。
伊右衛門もその生年を逆算して当てはめてみました。

源助通信と初代の生年差が百三十六年、一代三十年として四代、二十五年とすると五代、やはり道松信士が二代当主である可能性があります。通信の妻は同村吉田氏です。

通信の跡を嗣いだ源助の妻美和は小田郡西川面村の阿部氏です。墓地にはこの後、長男源三郎と次男健次の子孫が同居しています。

源三郎妻芳能は小田郡川面村西阿部石助長女、健次の妻琴野は小田郡川面村西阿部石助三女とありますので、母美和の生家と同じかも知れません。

源三郎の跡は長男廉太郎が三十才で亡くなり、源三郎長女政與に浅口郡里庄町里見の仁科石蔵次男喜八を婿に迎えて嗣がせています。喜八の跡を嗣いだ次男昇の妻は昼田定太郎五女梅野となっています。

健次の跡を嗣いだ次男喜曽太の妻マツは浅口郡鴨方町深田富田兼吾長女ですが、明治四十三年に二十三才で亡くなり、後妻サメが入っています。サメは備後深安郡竹田村下竹田の馬越秀三郎長女とあります。備後にも既に株家があったようです。喜曽太の跡は長女緑に迎えられた婿養子豊士(同村吉岡英一次男)が嗣いでいます。


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