若林家
窪屋郡中洲村中島





平成十五年十二月メールを戴きました。
「実家若林家の本籍は岡山県窪郡中島村、白神幸五郎長男國次が若林五一郎の三女繁の婿養子となり、子孫が続いています」
と書かれてあり、ホームページで紹介していた中島の白神家と親戚になる家と直感しました。白神家の一族で始め「原」姓を名乗っていた家の初代妻が
「当村若林又右衛門光嘉娘」
とあるので、少し気になっていた家でもあり、さっそく墓地を訪ねてみました。

ちょうど、秋頃から岡山城下石関町の山田屋平井家墓地を三門山中で発掘し、その系図復元作業を行っている最中でしたが、この家に二人も嫁いだ人がいて、しかもその直後に平井家が絶家(或いは出郷?)となったために、累代の家譜が若林家に保管されている事を知りました。その幸運を喜ぶと同時に、何か不思議な力で引き回されているような感じがしてきました。

孫兵衛――孫市郎――孫市郎 ――九左右衛門――又右衛門光嘉――+――女
正保2  正徳4  享保12  延享1    安永8     |  正豊妻
                               |
                               +――縫
                               |  溝手吉重妻
                               |
                               +==與八郎恭都――+――五左衛門俊明――+
                                  岩崎氏    |  文政10    |
                                  文化9    |  室小野氏    |
                                  室若林氏   |          |
                                         +――松五郎常徳   |
                                            守安家嗣    |
                                                    |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――孫蔵公徳
|  天保6

+――五一郎師趙――+==寿次義路
   明治11   |  
   室守安氏   |  明治41
          |  室若林氏
          |  室藤田氏
          |  室赤松氏
          |
          +==國治惟治――禎爾  ――+――翁   ――+――淑枝
             白神氏   昭和6   |  昭和20  |
             明治24  室平井氏  |  室村上氏  +――梧一    ――男      ――+
             室若林氏  室平井氏  |        |  平成5     室島田氏     |
                         |        |  室吉川氏             |
                         |        |  室伊藤氏             |
                         |        |                   |
                         |        +――雅次    ――+――女     |
                         |        |          |        |     
                         |        |  室山路氏    +――男     |
                         |        |             山路家嗣  |
                         |        +――邦三               |
                         |        |  大澤家嗣             |
                         |        |                   |
                         |        +――晴司               |
                         |           大正10             |
                         |                            |
                         +――操                         |
                            村田家嗣                      |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――女
|  小山田氏妻

+――男
|  室加藤氏

+――男

九郎右衛門以前は墓碑の並びと、夫婦の歿年から想像で並べました。同村の白神家や三島家と同じようにおそらく中島の開墾が進められた江戸初期からの入植家と思われます。白神姓と若林姓は、吉備郡真備町薗にも同居していて、中島の両家もここから移住したと思われます。薗の白神家を訪ねた時、この付近はかつて平安の昔に都落ちした公家たちが住んだ場所と云われた方がありました。墓碑に刻まれた「十六枚菊」を発見してその話を思い出しました。
余談ですが、真備町薗の若林家からは俳優の若林豪氏の先祖も出ているとお聞きしたことがあります。

與八郎恭都は都宇郡五日市村の岩崎與兵衛勝憲の子で、又右衛門光嘉の娘梶の婿養子となって、三男二女をもうけています。碑文には中島村の里正をつとめたとあります。
孫蔵公徳(字子潤)は、五左衛門俊明と妻小野氏との間に生まれた長男です。俊明夫婦には四男子がありました。
五一郎師趙は俊明の次男で、兄が先に病歿したので家を嗣ぎました。妻信は窪屋郡西郡村の守安常徳長女で、この夫婦はいとこ同士になります。即ち、師趙の叔父(恭都次男)が守安家に養子に入り、常徳と名乗っています。

師趙は三女小繁に、同村白神家から國治惟治を婿養子に迎えて分家させ、季女喜久に浅口郡三和村辻元助の三男寿次(義路)を婿養子に迎えて跡を嗣がせています。
喜久は明治五年に二十九才の若さで義路との間に子をもうけずに亡くなり、義路は岡山市花畑の藤田正伍の二女を後妻に迎えましたが、この人との間にも子が出来ませんでした。「義路妻 大坂市赤松彦治郎長女満佐」という墓碑もありますが、後妻藤田氏の墓碑は見あたりません。義路の跡は墓碑からは辿れません。

禎爾は安政六年二月十四日生まれ、妻雅は岡山市石関町平井卓衛二女で、明治二十一年九月に三十才で亡くなり、禎爾は雅の妹杢(若林家で槙と改名)を後妻に迎えています。
禎爾の長男*(竹冠に翁 しげる)、次男操(みさお)は共に雅が生んだ子で、それぞれ明治十一年、明治二十一年七月出生となっています。雅は操が生まれて僅か二ヶ月で亡くなっていますから所謂産後の肥立ちが良くなかったのでしょう。

*(竹冠に翁 しげる)の妻美佐尾は京都府宮津町村上い巳の娘で明治二十二年生まれです。夫婦は一女四男をもうけています。

操は明治四十四年、真庭郡久世町大字の村田麟治郎の養子となっています。

梧一は大正二年生、奈良県南葛城郡吉川栄四女愛子を妻に迎えますが、愛子は二十九才で亡くなり、その後新潟県刈羽郡伊藤信一の長女ケイと再婚しています。

倉敷市史に中島村役人の一覧があり、

孫市郎 元禄十五年十一月十二日 備中片島大庄屋年寄中島庄屋年寄申口に拠る 享保三年二月四日福田古新田開墾訴訟書に見「孫一郎」
孫市郎 彌一郎 正徳五年七月十七日 享保八年福田古新田開墾訴状に享保十九年中島村明細帳
又右衛門 寛保三年 延享元年 覚吟味書付
与八郎 明和元年三島文書 天明八年三月 寛政五年内済証文
五左衛門 文化七年 天保十二年
五左衛門 安政中(備中村鑑による 三島寿太郎と共に勤める)

などが見られ、これらが若林家の先祖のようです。


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