和気家
御野郡米倉新田村





近世のはじめに大坂の陣で落ち武者となった治左衛門が備中南部に帰農、その長子與左衛門が備前藩の許可を得て笹ヶ瀬川下流を干拓し、寛永14年に新田30町余を造成しています。当時、開発地主を村の責任者にするのが一般であったので、與左衛門も新田庄屋に任命されています。子孫は後に大庄屋も勤めています。

岡山市西花尻の太田家のご子孫から、「米倉の和気家から迎えられた養子婿が、生家の跡継ぎが亡くなったので、実家に戻った」というお話をお聞きして、その人の墓碑を訪ねてみようと思いました。しかし、下記の略系のように、今のところその人物は不明です。

治左衛門――與左衛門信重――七兵衛――加七郎――甚七郎則方――巳之介信房――修左衛門房丈==與平太芳房――+
      明暦3          延享1  享和1    天保15   慶應2     片山氏    |
                                              明治5    |
                                              室寺尾氏   |
                                                     |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――久米治 ――+――寛男  ――照男
   明治31  |  明治43  平成2
   室塩津氏  |  室神野氏
         |
         +――昌郎
            昭和28

與左衛門は自分の家にあった念持仏千手観音を本尊に寺を建立しました。後に、この寺は與左衛門の法名「常慶院心月永照居士」に因んで常慶寺と改名しています。

「きびのさと」によると、
「太田直温娘千賀は小橋町塩津某に嫁ぎますが故有って実子亀穂を連れて復籍」
とあります。太田様は
「千賀の夫は米倉村和気氏」
と云われましたが、
「和気英吾清晃 明治十六年三月四日歿年四十三 岡山区小橋町鹽津権次郎三男**素英居士」
という墓碑があり、英吾清晃は亀穂より二十六才年長となり、親子、即ち太田千賀が嫁いだのはこの人ではないかと思われます。


ホームページへ