八木家
下総国関宿



下記は外祖母池田富江が切り抜きいて保存していた昭和六十一年六月二十八日の津山朝日新聞の記事で、伯父池田辰二がコピーして送ってくれました。
富江の祖母愛は、箕作秋坪の従姉妹と聞いていましたが、詳しい縁続きは不明でした。
愛は池田丈右衛門の娘で、丈右衛門の実家である玉野屋戸川家を相続しています。
愛が秋坪の従姉妹ならば、丈右衛門の妻が秋坪の父か母ときょうだいのはずですが、丈右衛門夫婦の記録は、
「等覚院宗悟日成信士 安政四巳年四月八日
 園林院妙秋日紅信女 嘉永五子年九月八日」
が全てでした。
下記を見て、菊地士郎妻「たみ」の姉妹のうちの一人が妙勇であれば、縁続きが証明できます。

代官八木伝次郎とその娘 鳳紫郎
勝央町商工会北側にある東西三丁、南北二丁の土地が代官所跡である。勝田郡内では代官所跡は他にはない。
明和七年(1770)久世出雲守が大坂城代に任ぜられ、下総国関宿より勝南郡三万三千石に移封された。代官八木伝次郎は勝間田字畑才に代官所を作り、三万三千石を管理した。八木代官は在任中に死去し、その墓は正行寺内にある。代官の娘は津山藩士後藤佐野右衛門基義に嫁している。基義夫妻には九人の子があり三女たみは箕作秋坪の母である。また基義の孫勘九郎(鳥取藩士)は神伝流印可皆伝を植原六郎左衛門より受け、第十一代神伝流宗師となった。三女たみの墓は西寺町の光厳寺にあり、戒名は蓮光院妙応大姉である。
後藤佐野右衛門基義と八木伝次郎の娘以後を書くと

後藤佐野右衛門基義は英田郡妙見三星城主・摂津守後藤勝元の子孫で七代目の当主である。箕作秋坪、菊地大麓など我が国の大人物が八木伝次郎の血を引く方々であることを知って、代官所跡の一部を守る筆写としては驚きにたえなかった。勝央町町民でも商工会の北側の土地が代官所跡であったことを知る人は少ない。また八木伝次郎の墓が正行寺内にありながら訪れる人がない。箕作秋坪、菊地大麓の祖先である新しい観点から八木代官をみるべきではあるまいか。
付記 この一文は津山藩士菅沼栄家に伝わる資料による。

平成八年二月、菅沼栄を電話帳で捜して電話したところ、その家に間違いないことが判りました。こちらの意図を理解され、「勝間田代官所(畑才代官所)について 有吉繁樹著」という一文のコピーを送っていただきました。項目と要点を抜粋しておきます。

一、はじめ
二、勝間田代官所の変遷
 第一期
 第二期 明和七年から安永二年 久世出雲守広明
     代官八木伝次郎、老臣富田善右衛門、勘定役青木茂八
     明和九年代官八木伝次郎死亡、正行寺過去帳によると、
     七月十二日 賢徳院釋義海居士 八木伝次郎
                    八木九十郎実父也
                    八木弥十郎慈父也
     久世出雲守地方役所当町に於て去る明和七年より出来の代官
     八木伝次郎死去被致当寺に葬送す
     現在秀山他出に付、恵厳焼香にて相済す
 第三期
 付(一)八木伝次郎とその娘
     赤堀康興氏(亡)の卒寿随筆集(昭和六十一年五月)によると
     代官の娘某は津山藩士菅沼家に嫁しているから血縁は現在にいたっている。
     津山市菅沼栄氏(亡)から私がいただいた手紙によると、
     先年津山朝日紙上に記載された赤堀康興翁の「代官八木伝次郎とその娘」に関し不充分な報告個所ありたる点をその後調査して報告致します。
  (二)代官八木伝次郎薪森原百姓万左衛門仕置に関し責任切腹する。
     「美作一覧記」から概説すると(岡山県史第廿七巻近世編纂物、昭和五十六年刊)、
     久世出雲守の領内、西々條郡薪森原村(現苫田郡鏡野町)の百姓万左衛門という平常強情者がいた。明和九年二月十九日の夜、同村治右衛門という富家へ強盗押し入り、治右衛門夫婦を殺害、金品を奪取する事件が発生。この嫌疑が万左衛門にかかった。それは、事件後、万左衛門が津山で身分不相応の買物と遊興をしたのがその理由であった。
     役人は万左衛門を捕縛し、勝間田の代官所に引きたて、入牢してきびしく吟味したが、強情者の万左衛門は、役人を恐れず、「知らぬ存ぜぬ」の一点張にて、かえって役人を罵倒した。村の庄屋、村役人たちが万左衛門に面会して「いつまでも強情を通すな、実体を申し立て早くお免しを得て帰村せよ」と言いふくめても一向に受けられなかった。役人は(代官所)万左衛門が津山での買物金と遊興費の出所を言わず、強情、雑言、不礼の繰りかえしに、真犯人と決定、万左衛門は、千本池頭の南方にあった刑場で斬首された。
     同年十二月、岡山にて、備中生れの強盗、あだ名が山鼡という者が召し捕らえられ、作州薪森原村治左衛門夫婦殺人と金品の強奪をも自供した。代官八木伝次郎は、部下の取り調べ不始末とはいえ、ことが公儀の知るところとなり、罪の領主に及ぶことを恐れて、責任上切腹した。
三、むすび

真犯人の供述前に伝次郎が死去しているようですが、過去帳の方が正しいと思われます。

正行寺の本堂裏に墓碑があり、
「総州関宿産 八木伝治郎盛喜 八木九十郎盛勝実父也 八木彌十郎永盛慈父也」と刻まれています。

伝治郎には後藤基義に嫁いだ娘の他にも少なくとも二人の男子がいたことが判ります。これらの子供達がその後どうなったのか、また子孫は続いているのかと気にはなりましたので、関宿町教育委員会、社会教育課に問い合わせてみました。回答は、
「町内の寺のめぼしい墓碑を捜したが『八木』という墓は見当たりませんでした。『関宿世禄之記録』に、八木太郎右衛門元禄十二年より道奉行勤、二代八木庄助宝永二年から延享五年まで中小姓勤、三代八木太郎右衛門元文四年から中小姓勤、四代八木庄助宝暦十三年から中小姓勤 という記述があります。」
とのことで、これ以上の調査は難しいようでした。

平成二十五年五月の末、以前より文通のあった岸本愛彦氏より連絡がありました。

「当家の縁戚に関宿藩士だった家が有り『関宿世禄の記』を入手しました。貴家の御先祖に八木伝治郎盛喜と云う関宿藩士がおられたと気付き調べてみました。藩士中の八木家は八木太郎右衛門家と八木次郎右衛門家と云う二家があり、両家共に延宝七己未八月六日成公御家督以後に召抱えられた家で、八木次郎右衛門家の三代伝次郎が伝治郎盛喜かと存じます。千葉県立関宿城博物館には関宿藩士の系図が所蔵されているそうです。八木太郎右衛門は「実台寺(日蓮宗)明治年間に隣町に移転」、八木次郎右衛門は「宗英寺(禅宗)野田市大字台町五十七)」に墓があると『関宿志』に記載があります」

関宿町教育委員会の回答にある『関宿世禄之記録』と、岸本愛彦氏の入手した『関宿世禄の記』は同じようです。岸本愛彦氏は、平成十四年一月、津山市二宮立石斎兵衛の庶子で、徳守宮神主小原春真の跡を継いだ小原正続(千坐、寛政六年生、慶應四年歿享年七十五)を紹介していただいて以来のお付き合いでした。

続いて、六月の中旬、次のような報告が届きました。

「関宿城博物館所蔵資料の撮影と八木家菩提寺の宗英寺(曹洞宗)に行きました。資料を添付します。
・「関宿藩士系略」天保三年頃の編纂、原本の所在は不明、コピーされたものを撮影。
*八木多郎右衛門
*八木次郎右衛門
・「旧関宿藩士人名録」幕末維新時の藩士動向を記録した文書。
*八木省吾
・宗英寺廃墓 八木次郎右衛門盛秀墓碑
1、八木太郎右衛門家と八木次郎右衛門家は別の家で、八木次郎右衛門家は丹波出身、傳次郎の娘に「但馬勝南郡勝間田村 一向宗正行寺ヘ預置」とあります。
次郎右衛門妻井上九太夫女、傳次郎妻井上唯八郎女の実家井上家は「関宿藩士系略」には記載がありません。
2、維新時の当主は「八木省吾」で有った様です。藩内の佐幕派にはつかず関宿内に残ったと記載があります。
3、宗英寺の墓は大分整理されてしまっており、諦めましたが、廃墓の山を眺めていましたら、「八木」の字が目に留まり、撮影してきました。伝次郎盛喜の父次郎右衛門盛秀の墓碑です。系図には諱が有りませんでしたが、墓碑により確認出来ました。
(右面)寛延四辛未年閏六月十九日
八木次郎右衛門盛秀之墓
(正面)祖庭良柏居士
(左面)孝子 八木傳次郎盛喜
桑原左平太栄詳
中村又久秀親妻」

ちょうど辰二伯父の四十九日法要の直前で、叔母(垂井元子)に報告書を転送して法要の席で紹介してもらいました。伯父は旧制津山中学の三年生の時に予科練を志願させられ、続いて特殊潜航艇蛟龍搭乗員となって終戦を迎えました。津山中学四年に復学、大阪歯科大学卒業後、大阪府布施市(現在の東大阪市)で開業しました。平成二十五年四月二十四日に享年八十三才で死去。

伊左衛門  ――+――次郎右衛門盛秀――+――幸七
        |  寛延4      |
室中川氏    |  室井上氏     |
        |           +――小伝治
        +――伊左衛門     |  京都へ
        |  江戸住      |
        |           +――傳右衛門栄詳
        +――女        |  桑原家嗣
           武野彦内母    |
                    +――傳次郎盛喜 ――+――九十郎盛勝――省吾盛身==喬
                    |  明和9     |               小柴氏
                    |  室井上氏    |  室宮田氏   室林氏
                    |          |
                    +――女       +――さと
                       中村秀親妻   |  後藤基義妻
                               |
                               +――彌十郎永盛

系図の「但馬勝南郡」は「作州勝南郡」を誤筆写したと思います。関宿初代伊左衛門の妻は丹波亀山中川三右衛門娘、二代次郎右衛門の妻は井上九太夫娘、傳次郎盛喜の妻は井上唯八郎娘、九十郎盛勝の妻は松平豆州臣宮田忠吾娘、省吾盛身の妻は蜷川相州臣林億右衛門女、喬は小柴儀兵衛の男子となっています。
盛秀の墓が寄せ墓に埋まっていることから、嫡孫は絶えたか他所に出たと思います。

桑原

傳右衛門栄詳――+――左平太  ――
        |
室坂本氏    |  室小山氏
室多田氏    |
        +――女
        |  小嶺万七郎妻
        |
        +――女
           池田錫之助妻
           吉田惣右衛門妻

盛喜の兄は桑原(繻エ)家を相続しています。妻は坂本仁右衛門娘、後妻は古河丁(町)の医者多田太安(安臣か?)娘、長男左平太の母は坂本氏で、妻は土井大炊頭臣小山領玄娘。次女は池田錫之助との間に政五郎をもうけ、錫之助歿後に牧野備前守臣吉田惣右衛門妻となって弥太郎をもうけています。

中村

文久秀親――+――和助
      |
室八木氏  |
      +――女
      |  平野材治妻
      |
      +――女
      |  黒川源右衛門妻
      |
      +――丈右衛門

岸本氏が盛秀の墓碑で又久と判読した人は系図では文久秀親と読めます。

鳳紫郎は、本名赤堀康興。大正五年に旧制津山中学を卒業、その後東京歯科医学専門学校(現在の東京歯科大学)を出て、郷里の勝間田171番地で開業しています。平成五年四月十八日に享年九十六才で死去しています。昭和五十八年二月発行の随筆集「私の一生」、87頁に「代官所跡旧宅の思い出」という一文に、
「祖父熊一郎が次男市次郎を連れて別居、隠居した処」
が代官所跡の一部とあります。

赤堀

市次郎宗繁――康興  ――+――進
昭和9    平成5   |  平成22
室寺田氏   室原田氏  |  室
             |
             +――女
             |
             |
             +――美子
                平井譲妻

**

亀治郎宗義――熊一郎宗久――+――勝四郎宗長――+――むつよ
明治11   明治16   |  昭和2    |  分家
室      室高山氏   |  室河田氏   |
              |         +――淳太郎  ――+――朝子
              +――礒二良宗近     昭和41   |  浦上恒右衛門妻
              |  安政6       室甲斐氏   |
              |                   +――和一郎    ――+――泰一郎
              +――市次郎宗繁            |  平成27     |
                 分家               |  室木南氏     |
                                  |           |
                                  +――真三郎      +――順子
                                  |           |
                                  |  室河本氏     |
                                  |           +――温子
                                  +――祐子
                                     田中稠久妻

淳太郎は旧制津山中学、岡山医学専門学校を卒業後、産婦人科教室安藤画一教授に師事、大正八年津山市田町に産婦人科病院を開業、同十三年山下に移り、昭和廿五年財団法人赤堀病院と改組。津山医師会会長 日本産婦人科学会評議員等を歴任しています。独自の輸血器具を創案してその普及に努め、津山地方の産婦人科で初めて開腹手術を行っています。自らも運動を好み、弓道場、庭球場を造り一般に開放して地方人の体位向上に貢献しました。昭和四十年十一月十一月二日に享年七十四才で死去しています。


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