山川家
窪屋郡生坂村
窪屋郡生坂村(倉敷市生坂)の山川家墓碑はもともと東雲院歴代住職の墓碑と共に寺の境内にあったと寺の古記録にありますので(都窪郡誌)、寺に対して相当の貢献をした家であったと思われます。
この家を調べるきっかけは、清水家の過去帳に「享保六年歿、○○悟入信士、山川七左衛門」と記録を見つけたのにはじまります。
岡山大学所蔵の池田家文庫にある宝永五年の生坂村百姓帳をみると、戸主恵左衛門(えざえもん)の父に七左衛門の名があります。これは清水家過去帳の記録と年齢も合致しますので、山川家の家族構成と云うことが判りました。
清水彌右衛門末弟のご子孫のもとにある系図には、「備前領行坂村山川江左衛門(えざえもん)妻」と記されています。この姉は石原茂一兵衛の妻、妹は西阿知村岡助左衛門妻です。
壱軒
一家内拾弐人内男三人
女九人 恵左衛門
内
壱人 恵左衛門 歳四十三
壱人 女房 歳二十九
壱人 娘かめ 歳 六
壱人 娘きち 歳 三
壱人 弟与太郎 歳 十二
壱人 妹き王(きわ) 歳三十七
壱人 姪者つ(はつ) 歳 二十
壱人 姪志な(しな) 歳 十七
壱人 姪流里(るり) 歳 十五
壱人 姪すき 歳 十三
壱人 姪さめ 歳 十
壱人 父七左衛門 歳六十六
牛壱疋
恵左衛門は長さ31間、横1.5間の呉竹薮1箇所を所有し、この請銀は2匁7分とあります。山は6反5畝と3反5畝の小松山を2箇所所有しています(合計1町)。
石原茂一兵衛と山川恵左衛門は従兄弟で、茂一兵衛妻と恵左衛門妻は姉妹になるという、石原家と重縁のあった家です。恵左衛門、八左衛門と続くらしいことは判りますが、その後2代くらいよく判りません。下記のように並べてみました。
七左衛門――恵左衛門信光――八左衛門秀元――某―――平右衛門――武三郎利久――+ 享保6 寛保2 宝暦6 享和1 文化11 明治18 | 室石原氏 室神原氏 室尾崎氏 | | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | 分家 +――虎蔵 | | 分家 +――杢次郎 | +――熊蔵利秋――富太郎 ――武夫 | 明治44 昭和16 昭和44 | 室小崎氏 室風早氏 室難波氏 | | 分家 +――音蔵平衛
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虎蔵 ――+――松蔵 ――+――常治 室原氏 | 大正4 | 昭和44 | 室鴨井氏 | 室千田氏 | | | +――佐平治 ――亀太 | 昭和17 昭和19 | 室渡辺氏 | +――梅吉 ――万蔵 昭和10 昭和26 室宇野氏
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杢次郎 ――義蔵 ――初太郎 ――康一 明治6 大正4 昭和43 平成4 室大森氏 室難波氏 室片山氏 室佐伯氏
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音蔵平衛――重平 ――敬止 明治45 昭和17 室宇野氏 室大月氏
七左衛門とその妻の墓碑は生坂東雲院の住職墓地隣にある山川家墓地内にあります。他にも傘の付いた立派な墓碑がたくさんあります。いつの時代か、東雲院住職の墓碑と共にここへ移転されたようです。この墓地は現在、平衛からの墓碑とともに敬止氏が管理しています。恵左衛門夫婦以降の墓碑は山川一族の直系と云われる強氏の管理となっていますが、恵左衛門以降の墓碑はいずれも質素になっています。
音蔵(後に平衛と改める)は幕末に酒造業でたいへん羽振りが良くなったようです。たくさん墓碑があると掃除だけでもたいへんで誰かに任せたくもなるでしょう。ちょっと羽振りが良くなった分家が、ふるい墓地の管理を申し出れば渡りに船ということもあったのかも知れません。時にはふるい墓地や墓碑をめぐって株家間で所有権争いをしているところもあります。
明治3年の生坂村宗門帳によると、
一、熊蔵 印 歳三十七
妻 印 同二十七
子富太郎 印 同三
娘こと 印 同九
兄虎蔵 印 同四十四 判頭
兄嫁 印 同四十四 虎蔵妻
甥松蔵 印 同十六 同人子
甥梅吉 印 同十 同人子
姪しう 印 同二十一 同人娘
兄杢次郎 印 同四十一
兄嫁 印 同三十五 杢次郎妻
甥義蔵 印 同十二 同人子
甥民蔵 印 同七 同人子
弟音蔵 印 同三十二
弟嫁 印 同二十七 音蔵妻
姪まきの 印 同四 同人娘
父武三郎 印 同七十
母 印 同六十三
合拾八人内男拾人女八人 印(東雲院)印(貞基) 牛壱疋 印
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