安原家・清水屋
賀陽郡八田部村
天正2(1574)年から同3年、毛利勢が備中の三村勢を攻めたとき、敵の武将を掴み殺したり、その首をねじ切って殺した安原彦左衛門元吉という巨漢がいたそうです。元吉は、「つかみひこべえ」とか「ねじりひこべえ」というあだ名で呼ばれたと云います。江戸時代の宝暦年中に著された「備中集成志」には、この彦左衛門の子孫は石見銀山(島根県大田市)に居ると書かれていますが、八田部郷清水村(総社市)の安原氏もこの彦左衛門の子孫と主張しています。それによると、彦左衛門は毛利家に仕えて哲多郡高瀬村(阿哲郡神郷町)勝ケ城主となり、その曾孫、太兵衛は関ヶ原の合戦の後に浪人して備中金井戸南国府(総社市)に土着、その後、善兵衛勝吉の代に清水村に移住しています。
総社市清水にある安原家墓地には清水屋の由緒を証明するような墓碑が見つかりませんでしたが、株家になることは間違いないようでした。家紋は両家とも同じです。
勝吉(妻は荒木氏)の次男正品は元禄8(1695)年に八田部村に分家して清水屋という屋号で醤油業を始めました。後には酒造や質商なども営み、ついには松山藩の御用商人にまで出世しています。最盛期には35町もの田畑も所有して町内の亀山家と1、2を争うまでの資産家だったといいますが、明治維新後にその全財産を失い、今は屋敷の跡形もなく、子孫も絶えてしまっています。
こういう次第ですから、安原家の系譜を完全に発掘することは困難ですが、総社市北浦の観音堂前にある歴代の墓碑を調べて、下記のようにまとめてみました。残念ながら、生坂清水家との関係は不明ですが、いろんなところに廻り廻った縁があることが判ります。
善兵衛正品――+――義平治品紹 ==貞四郎正業――+――貞八郎正令 元禄8 | 明和7 正郷の子 | 天保6 室石田氏 | 室脇本氏 寛政4 | 室伊丹氏 | 室山田氏 室赤木氏 | 室伊丹氏 | | +――貞八郎正郷――+――貞四郎正業 +――貞八郎正路==助二郎惟省――+――元太郎正誠==源三 享和 | 本家相続 | 安政2 小河原氏 | 文久2 室池田氏 | | 室安原氏 嘉永6 | 室田邉氏 室荒木氏 +==仙助正條 | 室池田氏 室正路娘 | 佐伯氏 | 室難波氏 室大島氏 +――徳二郎 ――照夫 | | 明治26 +――女 | 室折井氏 伴高辰妻 | +――信次郎正義 慶應4
惟省(小河原貞蔵の子)の母は難波氏とあり、正路の3妻の実家との関係がありそうです。
正義は浅尾騒動のとき陣屋で殺傷されています。
仙助正條――+==源蔵常房 ――+――義之助正常==僊三正敏――+――源三 佐伯氏 | 天保10 | 嘉永3 明治9 | 本家嗣 文化5 | 板野氏 | 室安田氏 河本氏 | 室鳥羽氏 | 室正條娘 | 室中原氏 室水澤氏 +==芳治正学 | | 徳永氏 +――女 +――岩蔵正誼 明治22 山岡市良右衛門妻 | 文化15 室正敏娘 | 室伊丹氏 | +――甚右衛門 佐伯家嗣
正條は佐伯房勝の子で母は難波氏、その妻は母難波亢由娘とあります。
正常の妻は岡山安田正義娘、母は家女とあります。延友の難波家から佐伯継房、安田光従に嫁いだ人があるので、難波、佐伯、安田、安原、いずれも複雑に絡み合っているようです。なお、佐伯、安田両家については何処のどういう家かよく判っていません。
清水屋本家分家の墓碑には、歴代の当主と配偶者の名の他に、それぞれの父母についての記録もあります。初代正品の母は野辺村荒木遊右衛門娘、正品妻は八田部村の石田宗兵衛春行娘、2代品紹妻は軽部村の脇本氏、後妻は下道郡陶江村の山田氏という具合です。位牌や過去帳などはどういう経緯で失われるかわかりませんから、やはり石に深く刻んでおくのが一番確実かなと思います。
清水屋本家の2代品紹の弟正郷は分家して角清水屋を興します(本家を元清水屋という)。この人は歌をよくして、鴨方の西山拙斎を友とした文人でもありました。正郷の後妻は撫川荒木厚隆娘とあるので、下道郡辻田村池田の池田重則妻と姉妹になるようです。従って、初妻の池田氏とは池田半七知則の娘と思います。品紹に子がなかったので、長男正業に嗣がせ、角清水屋は正條を養子に迎えて相続させています。
玉島(倉敷市玉島)の東綿屋中原家から角清水屋に嫁いだ久子は、安原玉樹という名の女流歌人として有名で、備前国岡山の森知乗尼、備前国邑久郡豆田村の松原三穂子と共に、吉備の近世3女流歌人と言われます。今では祀るべき子孫が完全に途絶えた安原家の墓地ですが、この玉樹の墓碑を訪ねて来る人は絶えないようです。玉樹と正常の子はすべて幼くして亡くなったので、岡山船着町の河本家から養子を迎え、これに倉敷町の水澤家から妻を迎えて相続させています。
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