安井家
上道郡藤井村



駒井家の過去帳に、
「○○智誓、天保六年五月、藤井村西御本陣八郎兵衛家内中川屋虎吉娘也俗名知世」
という記録があるので、平成7年3月、岡山市藤井を訪ねてみました。
ご子孫に用件を告げると、私が訪れたことを喜んでいただき、すぐに手を止めて墓地に案内して下さいました(下写真)。



たいへんご熱心にご先祖の解説をしていただいたのですが、私は上記の墓碑を確認するのが精一杯で、他の墓碑の調査はほとんど出来ませんでした。このことがあってから、お近くにご子孫が健在の場合でも、墓地は案内なしに1人で捜し、一応自分が納得した上でご子孫に会ってお話をお聞きすることにしました。

それから3年ほどを経て、駒井家と周匝の金谷家、周匝の金谷家と日生の金谷家、日生の金谷家と安井家のつながりを知ることになりました。平成10年9月、再度藤井を訪ねましたが、きれいにされていた葡萄棚には雑草が生い茂り、あれっ?と思いながら墓地まで脚を運ぶと、3年前にいろいろなお話をしていただいたご当主夫婦の戒名を記した墓標が立てられていました。

吉兵衛貞芳――吉兵衛貞胤――吉兵衛貞弘――八郎兵衛貞奥――八郎兵衛貞就――八郎兵衛貞範――次郎右衛門貞訓――+
慶長7    慶長17   元和9    寛永14    承應3     寛文11    元禄13     |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――八郎右衛門貞道――八郎右衛門貞慶――八郎兵衛常秀――彦七郎貞長==次郎右衛門則信――八郎兵衛則定―――+
   元禄5      寛延2      寛保1     明和9    根岸氏      天明7      |
                                    天明2      室根岸氏     |
                                                      |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――八右衛門栄貞==一左衛門貞驤――八郎兵衛貞廣――+――真佐野 那須祐廣妻
|  文化12    慶應3     安政6     |
|          室河合氏    室三宅氏    +――女 金谷又市郎妻
+――亀左衛門    室駒井氏            |
   分家東本陣   室村上氏            +――啓太郎
                           |  明治7
                           |
                           +==啓太郎―――+――英一
                              那須氏   |
                              昭和13  +――二郎
                              室三宅氏  |
                              室大井氏  +――順子 井上家嫁
                                    |
                                    +――和子 木村家嫁
                                    |
                                    +――素子 満藤家嫁
                                    |
                                    +――宣夫
                                       室江川氏

貞芳は和気郡田出部天神山城主浦上家に仕えますが、天正年中に宇喜多家によって天神山城が落ちると、一時作州芳賀村に逃れ、のちに旧領の藤井村に帰って郷士となって落ち着きました。

貞就の頃に山陽道藤井宿の本陣、庄屋役を仰せつけられ、その後肝煎(大庄屋)役も兼務するようになります。この村役人及び本陣としての仕事は明治維新まで代々受け継がれています。

貞慶は子の常秀が早く亡くなったので、孫の貞長が成人するまで隠居から現役に復帰しています。同じ様なことが、貞驤の代にも起こっています。歴史は繰り返すと言いますが、1つ家にもこういう事件が繰り返し起こっていることがあり、不思議に思うことがあります。

貞驤の孫啓太郎も早世したので、啓太郎の姉真佐野の長男が啓太郎と名乗って嗣いでいます。
安井家の墓地の中に那須姓の墓が5〜6基建てられています。何れも明治以降のものですが、
「那須助三郎祐廣(父助三郎祐之、母川野氏)、
 明治12年に夫人の生家安井家に一家を挙げて移住、生5男2女、3男仁吉嗣
 明治42年歿、享年71歳」
という墓碑があります。
この那須祐廣妻が上記の真佐野です。

則信は上道郡古都南方村の医師根岸清澤の弟ですが、則定の妻は根岸清澤の娘ですから、則定夫婦は従兄妹同士になります。この根岸清澤の3男が津高郡一宮村の則武(本姓寺尾)藤九郎勝延の娘知勢の婿養子となっています。安井家の墓地で「根岸」というのを見つけて、どこかで聞いたような姓だ!と思って、「花子」で清書している一宮則武家の系図を見直して気付いたのですが、こういう頭の働きをうまく補助して目的の情報をうまく取り出せるようなパソコンソフトが待ち望まれます。

則定の次男が分家して東本陣を立てていますが、他にも古い分家があったようで、これは賀陽郡日畑村庄屋を勤めた生石(大森)家の系譜に見られます。

貞驤は槐堂と号し、漢詩人としても有名です。和気郡麻宇那村立花要介次男で、兄も閑谷学校教授を勤めた齋藤金壺という学者です。「一槐堂詩抄」「拙陋文詩」「名将名媛集」などの著書があります。

駒井家過去帳には知世の夫は八郎兵衛とありますが、墓碑には驤妻と彫ってありました。驤=貞驤と思います。貞驤の墓碑のすぐ左隣に妙花離散(廣谷村河合氏由可、文政6年9月歿)という墓碑があり、知世の墓碑はさらにその左になります。貞驤嫡男八郎兵衛貞廣は安政6年に36歳で死去していますので、生年は文政6年になります。妙花離散が貞驤の最初の妻、知世が2番目、貞驤と同じ墓碑に祀られている久美(真應院、明治22年歿、享年76)が3妻とすると、貞廣の母は由可か知世か微妙です。

和気郡日生町日生の金谷家墓地に、「金谷又市郎妻、嘉永6年〜大正11」という人が祀られています。墓碑文に「父は上道郡藤井の安井八郎兵衛、母は三宅光哲の4女、八郎兵衛の父は槐堂、母の父光哲は平野国臣などと交わった勤王家」と書いてあります。この光哲は高哲の誤りのようです。音が同じなので間違われたのでしょう。


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