原田家
浅口郡柳井原村
清水花の実家は岡山市三手の庄屋渡邉家ですが、その花の実母千鶴は渡邉分家から来ています。渡邉の分家は千鶴の兄が嗣ぎ、そのあとを相続したのは原田武右衛門の4男綱太という人です。除籍によると、綱太の妻は小田郡矢掛村の森下栄蔵の次女徳であり、綱太は14歳で養子に来ていますから、渡邉の分家と何らかの血縁関係のある家から迎えられたはずです。
がっちりとスクラムを組むように生き抜いてきた戦前の本家と分家の間には、お互いの家の血脈には何よりも深い関心を抱いていたはずです。それだけでなく、自分の家から嫁や養子を出した先方の家の血脈もたいへんな関心事であした。もしも自分の家に跡継ぎが出来なければ、血縁を頼って適当な養子を貰わなければならなかったからです。
ところが、渡邉家の場合、私が渡邉の分家にアクセスして調査を始めるまで、本家も分家も血脈の断絶など全く気にされていませんでした。渡邉家の縁戚関係にはまだまだ隠された部分があるようです。
家系を遡って行くと、夫婦養子の代というのがある家が時々見かけられます。そして、系図調査を始めたのは良かったが、そういう夫婦養子の代で躓いて調査を中断しているという話も良く聞きます。しかし、上記のような理由で、考えようによっては、夫婦養子の代はひじょうにたくさんの親族情報を隠している可能性もあるわけです。大きな壁になることは確かですが、それを乗り越えれば一度に多くの先祖に関する情報を得られることもあります。
渡邉綱太の実家について次のような書類が残っています。
備中柳井原原田家々系 昭和五十三年調
本家内藤家
第七代目内藤惣次郎――寿彦――斐彦――治彦
渡邉綱太氏は内藤分家から入家する
北原田家(本家第四代目頃の有力者)
五十人碌であった。
原田武左右衛門・・・京助 ――+――慎四郎 ――+――幸一郎 ――K ‖ | 本原田家 | 海軍兵曹長(在呉市) ‖ | (柳井原六三六) | ‖ | +――良蔵 ‖ | | ‖ | +――虎三郎(岡山住) ‖ | ‖ +――延吉(明治三十四年死亡) ‖ 北原田家 ‖ (柳井原六五三) ‖ ‖ ‖姻 +――+――恭治(明治十六年生明治三十四年家相 大正七年死亡) ‖戚 ‖ | ‖関 +―― 品 +――コマ(虎三郎の妻となる 亡) ‖係 | | ‖ 三宅善頂――+―― 真頂 +――チトセ(千葉県習志野 亡) ‖ (倉敷市林) | ‖ +――芳夫(明治三十年六月七日生大正七年家相) ‖ ‖ 昭和十七年転籍 ‖ ‖ ‖ +――+――敬子昭和十七年生 ‖ ‖ | ‖ ‖ +――昿 昭和十九年生 ‖ ‖ | ‖ ‖ +――毅 昭和廿二年生 ‖ ‖ ‖ 北垣ゆき江(大正二年生城崎) ‖ 奥佐藤家(原田家から娶る) 佐藤きく ――*三郎――+――兼太郎――秋夫(昭和五十三年死亡)――男 (原田家から早島佐藤家へ嫁す) | +――さよ
この系図には綱太が書いてないので、武右衛門と京助の関係も慎四郎と綱太の関係もよく解りません。そこで、慎四郎の子幸一郎の当時の居住地のNTTに頼んで、古い電話帳のコピーを郵送してもらいました。現在の電話帳を比較すると、原田K氏の名で電話帳記載があることが判明しました。電話をかけてみると、K氏は既に死亡、そのご子息I氏が古い名義のまま電話を使用されていることが判りました。先祖のことをお聞きすると「祖父は幸一郎と墓碑に書いてあったと思うが、うちの本籍は岡山にはないし、関係ないと思います」とのことでした。しかしその時に、幸一郎が戸主の戸籍謄本をとってもらうようにお願いしておきましたら、数日後電話が入り「あなたの云われるとおり祖父は岡山から転籍(本籍地移動)していました」、そこで、転籍前の戸籍をとって戴いたところ、原田武右衛門の次男が慎四郎であることが判りました。
奥佐藤家とは、*三郎よりも前の代に原田きくという人が佐藤へ入家したと書いてありますが、*三郎の先代、先々代の妻は原田氏ではないことは判っています。(*=言扁に求)
慎四郎の柳井原での本籍地番をもとに地元を訪ねて原田家の墓地を聞いてみましたが、地元の老人も原田家について知る人はありません。該当の場所は内藤本家のもと邸跡の南になるようで、一部は畑にまた一部は新築の家が建っていました。内藤本家のご子孫を探して尋ねたところ、原田家はもと鴨方の方からやってきたと聞いているとのことでした。除籍や他家の墓碑から次のように系図を書いてみました。
武左衛門――+――某 室 | +――慎四郎 ――+――幸一郎 ――+――要 | 大正6 | 明治40 | | 室高戸氏 | 室松尾氏 +――君江 | | | | | +――静 | | | +――良蔵 ――+―― 一枝 | | 室入江氏 | | | +――菊江 | | | 石原辨太郎妻 | | | | | +――年 | | | | | +――軫 | | | | | +――里 | | | | | +――雪江 | | | | | +――幸子 | +――つね | | 秋庭一太妻 | | 平松為治妻 | | | +――虎三郎 | +――千勢 | 三宅倉三妻 | +――左代 | 佐藤信利妻 | +――延吉 ――+――恭治 | 明治34 | 大正7 | 室三宅氏 | | +――コマ 虎三郎妻 | | | +――チトセ | | | +――芳夫 ――+――敬子 | 室北垣氏 | | +――昿 | | | +――毅 | +――綱太 渡邉家嗣
佐藤家と三宅家の墓誌によると、千勢は武左衛門長女、左代は同次女とあります。戸籍と墓誌で武右衛門、武左衛門と違いますが、年代を合わせると皆きょうだいであることは明かです。
綱太妻の実家になる矢掛森下家の情報をつけ加えておきます。矢掛の観音寺の境内墓地には、本陣を勤めた佐渡屋石井家や大庄屋を勤めた中西家の墓碑が乱立しています。私も度々調査に行きましたが、ある時、何気なく目を遣った墓碑に森下栄蔵という名を見つけました。あちこち歩いていると、こういう拾いものもあるのです。その墓碑を調査したところ、「久、三手村渡辺氏」とたしかに彫ってはありましたが、歿年が嘉永6年6月で、除籍に記してある徳の生年である安政元年12月と1年半のずれがあり、久と徳は母子の可能性はなさそうです。
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