吉田屋井上家
児島郡胸上村
「人皇102代後小松院御宇藤原性阿部支流」で、本国は三河國(愛知県)渥美郡吉田の産井上清兵衛正治が祖です。この3男与三兵衛正親を一祖として次のような系図があります。
井上 清水 与三兵衛正親――三郎春政――太郎正豊――兵衛正之――兵衛春親――与右衛正矩――与兵衛正和――与右衛門正直――――+ | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――与右衛門正盈――新右ヱ門春薫――与右衛門正栄――茂右衛門春恵――与右衛門春純――与兵衛忠純――善吉春高――+ | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | | 井上 +――与兵衛春敏――嘉吉春彙――五一郎正徳――貫一
春政から春親迄の4代は清水姓になっています。その後の姓は春彙まで不明です。春政から春親迄の4代は高畠家家老職を勤め、天正17(1589)年落城により正矩は庄屋役を勤めたとあります。
以後代々下山坂村、上山坂村の庄屋を勤め、春彙は他に北浦村、宮浦村(以上現在の岡山市)、胸上村、北方村(以上現在の玉野市)の庄屋も兼務しています。
上記の系図で、兵衛正之の次男(又は弟、又は本人)が井上河内守正範と名乗りこのあとが次のようになります。
磯屋のあとが書いていないのでよく解りませんが、
「倉敷の北大橋と胸上井上家が親類になる」と聞いています。北大橋と縁戚なのは倉敷市天城の磯屋井上家ですから、胸上の磯屋の跡が天城へ移住したのかも知れません。
系図には生存年代の記述がありませんが、
「一・本浄居士 寛政四年歿年六十九 井上吟右衛門」
という墓碑がありますので、これを吟右衛門正範と解釈し、それより古い年代の
「心蓮浄薫 享保十七年」
「蘭室妙薫 享保十六年」
を長兵衛正武夫婦ではないかと考えました。墓地は上下二箇所あり、上記夫婦の墓は下の墓所、上の墓所には主に縁戚関係の人が祀られているようですが、その中の
「寒山自休信士 延享元年」
という墓碑を文七郎正・にあててみました。正典、正敬、正武の娘がそれぞれ平岡家に嫁ぐとありますが、これらはおそらく全て正範の姉妹隆が嫁いだ家と同じか同株の家だろうと思います。
平兵衛の箇所に
「西大寺仁尾屋祖、入江家相続後平河」
とあります。平兵衛を襲名した入江家は、唐津入江と呼ばれる家で、入江家の墓地(岡山市平井上生院の南向かいの山上)に
「随應院宗宇日善 入江氏軌義 寛政四年歿年六十六才」
という墓碑がありますから、これが平兵衛軌義で、吟右衛門正範の実弟になるようです。
児島郡八浜村(玉野市八浜)の福部屋平岡家の墓所(玉野市八浜蔵泉寺裏山)に
「韜光一勇居士 藤四郎敷忠 安永七年」
「雪庭妙栢大姉 敷忠妻井上氏隆 宝暦六年」
と言う夫婦墓がありますので、正範の姉妹は隆という名であったことが判りました。
系図にある善右衛門喜敬は墓碑から俗名が拾えませんが、
「悟心義芳 寛政元年」
「自然妙聲信女 岡山河西氏秀文化五年歿年五十三」
が夫婦墓になると思います。
喜敬の妹で佐々木半太夫に嫁いだ人がありますが、この佐々木家は岡山とあるので、岡山藩政初期の有力商人「十人衆」と呼ばれた大年寄淀屋佐々木家(橋本町)であろうと思います。笠岡生長家の墓でもこの佐々木家から嫁いだと思われる人の墓碑を覚えています。
善右衛門喜敬の娘で小松家に嫁いだ人がありますが、この小松家は福山西浜屋とあるので、酒岩田屋羽田家と縁戚の家だろうと思います。また、この弟亀之助が相続した田中家は作州海内とあるので、英田郡海内村(英田郡美作町)で大庄屋田中久太夫を輩出した家であろうと思います。
六代昌左衛門相敬が早世して、弟竹治が久六郎敬重と改めて七代を相続したとありますが、相敬は文化七年に三十八才で死去しています。敬重の妻は記されていませんが、
「貞譽清心、七世敬重妻尾道島居氏産順安政二年三月廿四日歿年七十一」
という墓碑がありました。夫婦の曾孫哲が尾道島居家を嗣いだのはこういう血縁関係があったからのようです。
三左衛門、常吉の兄弟が相続した小豆島土庄の笠井家は、岡山福泊の大庄屋笠井家の本家筋になる家だろうと思います。
河内守正範――与一右衛門正房――+――与右衛門 | | 磯屋 +――長兵衛正章――+――長兵衛正典――+――女 | | 平岡勘介妻 | | | +――長兵衛 | 正敬跡嗣 | | 吉田屋 +――治兵衛正敬――+――長兵衛正武――――+――文七郎正・――+ | 享保17 | 延享1 | | | | +――女 +――女 | 平岡家嫁 平岡家嫁 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――吟右衛門正範――+――善右衛門喜敬 ――+――昌左衛門相敬 | 寛政4 | 寛政1 | 文化6 | | 室河西氏 | +――平兵衛 | +――女 | 入江家嗣 +――女 | 小松七左衛門妻 | | 東原初右衛門妻 | +――隆 | +――三左衛門 平岡藤四郎妻 +――女 | 笠井家嗣 | 佐々木半太夫妻 | | +――久六郎敬重 ――+――保之介正客 +――女 | 天保2 | 天保7 尾崎定介妻 | 室島居氏 | | +――女 +――亀之助 | 三木嘉平治妻 | 田中家嗣 | | +――女 +――常吉 | 妹尾家嫁 笠井家嗣 | +==東作正修 ――+ | 志賀氏 | | 明治38 | | 室敬重娘照 | | 室平岡氏 | | | +――登久 | 片山護吉妻 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――昌平 ――+――廉一郎 | 昭和7 | 塩谷家嗣 | 室長谷川氏 | | +――義夫 +――要 | 分家 | 神野利右衛門妻 | | +――克三 ――+――女 +――陽三郎 | 昭和45 | 三上家嫁 | 橋本家嗣 | 室三木氏 | | | 室浅野氏 +――昇作 +――六之助 | | 森家嗣 | 豊水家嗣 +――哲 | | | 島居家嗣 +――七十郎 ――+――女 +――保太郎 | | 室堀氏 | 青島家嫁 | 石井家嗣 +――操 | | | | 宮地敏朗妻 +――立蔵 +――男 +――峰 | | 三木家嗣 | | 小野九一郎妻 +――蕃子 | +――男 | | 安東敏妻 +――八重子 | +――那賀 | | 柴原家嫁 +――男 | 片山豊太郎妻 +――文子 | | 奥藤謹治妻 +――長 +――女 | 浅野家嗣 荻原家嗣 | +――女 | 丸家嫁 | +――女 | 片山家へ | +――男 | 浅野家嗣 | +――女 | 井上家嫁 | +――豊 ――+――男 室井上氏 | +――男 | +――女
保之介正客の墓碑には「八世之統男」とあり、天保七年に十六才で死去しています。竹治敬重の娘で妹尾家に嫁いだ人がありますが、この妹尾家は作州土居とあるので、本陣を勤め、幕末に三郎平兼教という勤王の志士を輩出した家で、岡山西大寺町仁尾屋(唐津)入江家と縁戚の家と思います。
八代は敬重三女照に和気郡片上駅志賀白翁次男東作(明治三十八年歿年八十二)を婿養子に迎えて相続させています。照は昌平、要、峰の一男二女を生んでいます。嘉永四年に二十七才で死去したので、東作は八濱町平岡月窓娘吹(婦喜 明治四年歿年三十九)を後妻に迎えています。吹との間には陽三郎、六之助、保太郎の三男二女がありました。なお、婦喜の墓誌には、
「備中国鴨方三宅氏産實者八浜村平岡月窓娘」
とあります。この時代、再婚は再婚同士というのが常識ですから、婦喜は鴨方三宅家に入った後に何かの事情で離縁して、実家に復籍しないで井上家に入ったということでしょうか。家柄からみて平岡家や井上家と釣り合いが取れそうな鴨方三宅氏というと島屋三宅家が挙がります。
系図には、要は備後福山神崎利右衛門妻とありますが、これは神野の誤りで、酒岩田屋羽田家、隅屋藤野家とつながっている神野家であろうと思います。上の墓地に「端浄妙薫、備後福山神野要 明治二十二年六月廿八日」という墓碑があります。
東児町史によれば、昌平は明治廿二年七月二十七日から三十四年七月廿六日まで胸上村村長を勤めていて、父東作、吉田屋、胸上151番邸、昭和二(七の間違い?)年歿年八十七とあります。妻幸は長谷川甚吉郎長女。なお、明治三十九年十月廿七日から大正七年十月六日まで胸上村長にあった寛はこの一族ではないのかも知れません。
系図には「陽三郎 尾道橋本房之助養嗣子」とのみ書いてありますが、
「陽三郎は胸上の井上氏で後に尾道の橋本家に養子に行った陽三郎である」
と聞いています。その通りであれば、陽三郎は備中窪屋郡生坂村間野與平克明娘「さと」の婿養子となり、後に離縁となって、尾道橋本房之助の養子となったことになります。
陽三郎の実母婦喜と與平は二いとこになりますので、ありそうな縁組みです。
六之助は観音寺豊水清吉養子、保太郎が嗣いだ石井家は何処の家か不明ですが、系図には他の筆で絶家と付記されています。
上の墓地には
「備中玉島堀八十二 明治二十二年歿」
「堀道平 明治二年 備中国総社村産堀將興次男 胸上村於寓居歿」
という墓碑があります。これは東作の甥道平とその子八十二です。即ち、堀道平の母勝が和気郡片上駅志賀源四郎俊徳(俊徳軒白翁信士)の娘(安政六年歿年四十四)で、東作の実姉になります。
廉一郎は昌平長男ですが、赤穂塩谷家を相続(妻こう)しています。次男義夫は分家、三男克三が十一代を相続しています。三十七才で相続し、墓誌に「中興の祖」とあります。昭和四十五年に九十三才で亡くなっていますので、かなり頑張った人なのかも知れません。妻豊野(播州那波駅三木彌三郎次女 大正十年歿年四十二)との間に四男五女、後妻のぶ(浅野氏 昭和六十三年歿年九十八)との間に三男三女がありました。
克三の妹操は広島宮地敏明、蕃子は岡山江見安東敏、文子は赤穂奥藤謹治へそれぞれ嫁いでいます。上の墓地に
「十世昌平長女操 広島県御調郡(現因島市)中庄村宮地敏郎妻 有二子曰貞子曰正太郎 明治三十八年歿年二十七」
という墓碑があります。
克三の子孫は道夫氏の系図に記録がありません。以降は堀千代子様が書かれた系図をもとにしています。豊野が生んだ長女は庄原の三上家へ、次女は赤穂の柴原家へ嫁いでいます。昇作は(赤磐郡)山陽町の森家へ、立蔵は相生市の三木家へ養子に行っています。季子の長はのぶの実家浅野家を嗣ぎに入りますが戦歿、その跡をのぶの長男が入っています。のぶの次女は(岡山市)郡の片山家、三女は広島県喜舎井上家に嫁いでいます。次男豊は道夫次女を妻に迎えて分家しています。
分家義夫のあとは次のようです。
義夫 ――+――勇吉 室 | 昭和9 | | 分家 +――潔 | 室大谷氏 | | 分家 +――道夫 ――+――泰旭 ――+――女 | 室清水氏 | 室宮木氏 | | | +――女 +――昌平 | | 室宮崎氏 +――矩雄 ――+――男 | | 室西川氏 | +――正太郎 | +――女 | 室清水氏 | | | | +――女 +――富精 | | 室石垣氏 +――和賀子 | | 井上徳重妻 +――静子 | | 崎原当好妻 +――律子 | 井上豊妻 +――恒子 | 斉藤伯太郎妻夫死後 | 針ヶ谷政次妻 | +――清 酒井信雄妻
倉敷の古禄宮崎屋井上家の先祖は高畠和泉守で、信濃国に居た小笠原信濃守長清が阿波國高畠に住んで三好家に仕えて高畠氏を称したそうです。和泉守は元亀年中(1570〜1573)に小串村(岡山市)に城を構えました。倉敷市史に、この丸山城についての記述があります。和泉守の子市正の時、天正17(1589)年に落城し、一族は方々へ離散したとあります。また、この一族の墓と推定されるものとして、寛文から明治の銘が入った墓碑十一基が挙げられています。
宮崎屋の先祖は油屋吉田家、加賀屋井上家の共に備前國児島郡山坂村、備中國都宇郡宮崎村を経て倉敷に移住したようです。
吉田屋井上、油屋吉田、宮崎屋井上、これらの諸家はみな一族のようです。
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