岡家
都宇郡山田村
先祖は戦国宇喜多和泉守直家の長臣惣兵衛通信といわれています。系図過去帳その他の古文書は残念ながら散逸していますが、通信は九州岳村から備前に来住したといいます。
墓碑は、寛永6(1629)年歿の蓮乗、同3年歿の妙乗から確認されています。おそらく宇喜多家滅亡によって帰農したものでしょう。幕藩体制下では代々この村の庄屋を勤めていたことが、現存する用水関係文書と墓碑の照合によって確認されています。
蓮乗 ――宗林――修精 ――宗讃 ――六郎右衛門――野助――+――富五郎 寛永6 正徳6 享保13 宝暦14 寛政2 | 文化5 | +――幸十郎 | 文化3 | +――了助 ――仙三郎信義――+ 文化11 文化13 | 室大森氏 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――女 | 梶谷正次妻 | +――良助 ――+――源作 ――善太郎 ――靖 ==商吉 | 天保1 | 嘉永5 明治33 明治42 田中氏 | 室難波氏 | 室岡氏 室富田氏 室井上氏 昭和35 | | 室靖長女 +==尤一 +――直吉 | 大熊氏 高田家嗣 | 安政5 | +――女 | 片山正武妻 | +――女 高田雲岫妻
岡家は宇喜多家の老臣戸川家とも縁戚関係にありました。
梶谷佐野の父は仙三郎信義、母は同郡早島村長津の大庄屋大森彦四郎諧忠の娘です。実弟良助は天保元年に37才という若さで死去していますが、日蓮宗の不受布施派の内信者(隠れて信仰していた人)であったことが発覚して捕らえられ、江戸への護送中に死亡したようです(天保の法難)。当時の山田村は幕府の天領でした。
良助の次男直吉は児島郡下村の高田雲岫(ウンシュウ)の長女久羅の婿養子となり分産分家して東高田家を興します。雲岫の妻も岡家から嫁いだ人、直吉と久羅はいとこ同士のようです。
ホームページへ