吉田家
都宇郡北大福村





この家には以前からいくつかの家の系図や過去帳に出て来ますので気になっていましたが、妹尾・大福の佐藤三郎兵衛家とも縁先になる事が判り、佐藤家系図復元のための資料集めのためにお墓を調べたいと思いました。
まず、諸家の資料に見られる情報を抜き出して整理すると、

○賀陽郡加茂村岡崎家九郎右衛門(軽部脇本氏)の妻が妹尾大福吉田弥左衛門娘とあり、この跡を天城中島清左衛門次男幾之介(三郎左衛門茂兵衛正甫賀陽郡加茂村岡崎氏養子天保三年十一月八日歿年七十五憲儀院正甫日章信士)が嗣いでいると中島家所蔵系図に記されています。
○岡山市妹尾の盛隆寺にある井上家墓地で、「瑞光院妙彩日香文政十一年八月四日歿年六十二北大福吉田彌右衛門義清娘井上又兵衛武啓妻積」という墓碑を確認しました。
○倉敷市西田の木村家過去帳に、「財右衛門政敦娘カジ備中妹尾大福村吉田家嫁文化五年四月四日歿信受妙哉信女」という記録があります。
○倉敷市水江の岡本過去帳に、
 大福村吉田家嫁明治十七年六月九日歿園樹院妙翫日閣
 園林院堂閣日翫大福村吉田弥右衛門義教慶應元年十二月廿七日歿
 真清院篤圓信士大福村吉田真策義諦明治十九年正月七日歿
という記録があります。
○岡山市富原の蜂谷丈七郎為詮には女子しかいなかったので、備中北大福村吉田喜平太三男新作(=真作、為右衛門唯将、天保二年五月廿六日歿年五十聞妙院法讃日喜)を婿養子に迎えて相続させています。蜂谷敬二唯英の墓碑には、丈太郎唯詮季子母下道郡八田村守屋氏、明治十年歿享年廿五、明治十二年友兄蜂谷道正建、外戚岡本常彦撰書とあり、水江岡本家過去帳には「天保十四年歿、守心院妙随信女、常彦室蜂谷氏」という記載があります。年代から見ると、常彦は唯英の親くらいになります。ただ、為右衛門唯将の子で岡本家へ入った人はいないので、吉田家が蜂谷・岡本両家を結ぶ接点になっていると思われます。

郷土資料に、「大福新田の開発が成就すると、古新田庄屋甚次郎の次男喜七郎が北大福村へ分家してここの庄屋になった」とあります。

以上より、捜している吉田家は北大福の庄屋だったと思われましたので、住宅地図上でかつて北大福村と云われた地域を比定し、そこにある吉田姓と墓地の分布を調べてみました。吉田姓はかなりありますが、やはり墓地はありません。苦労して造成した土地を削って墓地を造成することは普通ないのです。
そこで大福周辺の妹尾、古新田まで拡げて捜すことにしました。妹尾は佐藤三郎兵衛家のお墓を捜してほぼ隈無く歩いていました。北大福村は主に古新田村、中大福村は妹尾西磯、南大福村は同東磯の人が土地を所有していたとの記録も見つけましたので、古新田の妙泉寺に行けばかなりのことが判るに違いないと考えました。

妙泉寺前の解説札に次のように記されています。

古新田を開拓した吉田四郎右衛門の第二子本覚院日感が藩主戸川正安の招きによって寛永九年に建立したのを始祖とする。庫裡客殿は唱和四十六年に再建、本堂は昭和五十五年に再々建された。山門の門扉は欅の一枚板で、寛永の創建当時からの逸品である。なお、吉田四郎右衛門と甚次郎の墓がある。

境内の墓地はかなり広くて何軒かの吉田姓の墓地がありました。それらを一つずつ確認してノートに控えて行っていましたら、隣の「大月」家のお墓にお参りされているおじさんと目が合ったので挨拶しました。
「北大福庄屋の吉田家の墓を捜しています」
とお話しすると、
「自分の家と株家になるそこの吉田家(お墓を指さしながら)も庄屋をしていたように聞いていますが、ここにある吉田家はみな古新田です。貴方が捜している家は古新田の引船(ひきふね)にあった家かも知れません」
と仰り、引船吉田家の邸址と墓地の場所を教えて下さいました。さっそくお墓を訪ねてみましたが、前記のような墓碑は見あたりませんでした。

喜七郎――某  ――彌右衛門義昌――+――喜平太義胤   ――+――彌一兵衛義清――+――彌右衛門義敬――+
宝永1  元文5  天明3     |  文化11      |  文政6     |  慶應1     |
室    室    室       |  室岡崎氏      |  室       |  室蜂谷氏    |
                  |            |          |  室蜂谷氏    |
                  +――女         +――真作      |  室岡本氏    |
                  |  岡崎九郎右衛門妻  |  蜂谷家嗣    |          |
                  |            |          +――女       |
                  +――延         +――積          佐藤信吉妻   |
                     文化1          井上武啓妻              |
                                                     |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――某   ――官蔵  ――+――某
|        明治29  |
|  室佐藤氏  室     |
|              +――柳
+――真策義郷           公森傳作妻
   明治19   
   室岡本氏   

系図復元の解説

倉敷市天城の大庄屋中島富次郎栄武が書き遺した縁合記に「賀陽郡加茂村岡崎九郎右衛門(実は窪屋郡軽部村脇本氏からの養子)の妻が妹尾大福吉田弥右衛門娘とあります。この跡を中島清左衛門次男幾之介(三郎左衛門茂兵衛正甫賀陽郡加茂村岡崎氏養子天保三年十一月八日歿年七十五憲儀院正甫日章信士)が嗣いでいる」とあります。清左衛門は富次郎の祖父で、軽部村脇本家から中島家の婿養子に入った人です。岡崎九郎右衛門妻を年代を計算して当てはめてみると喜平太義胤と同世代になります。
岡山市富原の蜂谷家に、「為右衛門唯将備中北大福村吉田喜平太三男天保二年五月廿六日歿年五十聞妙院法讃日喜」という墓碑があります。詳細な碑文があります。為右衛門ははじめ真作といいう。蜂谷丈七郎に二女子あり、男子がいなかったので真作を養って嫡女と結婚させたが嫡女が早世したので季女を後妻にした。真作と丈七郎季女(止美文政元年七月四日歿貞信院妙以日慈)の間に二子があり、その長女は吉田某に嫁ぎ、長男は丈太郎唯詮と名乗って蜂谷家を嗣いだ。止美もまた早世したので、真作は玉嶋伊庭氏の娘を娶って一女が出来た。これもまた吉田某に嫁ぎました。止美が産んだ娘が「貞室院妙松信女 文政八年乙酉五月十六日 蜂谷氏娘久墓 享年十九歳」、伊庭氏がが産んだ娘が「妙法 守心院妙随信女 天保十三年壬寅十一月二日  蜂谷為衛門之娘」に相当するようです。蜂谷為右衛門唯将の碑文にある吉田某とは吉田彌右衛門義敬のことで、義敬は妙随信女の死後、倉敷市水江の酒屋岡本家から三妻を迎えています。これが「園樹院妙翫日閣信女 明治十七年六月九日歿 吉田彌右衛門義敬室岡本行・女久・」であって、倉敷市水江岡本家の過去帳にある「大福村吉田家嫁明治十七年六月九日歿園樹院妙翫日閣」という記録と一致します。
墓誌記録によれば、義敬のあとは真竹院泰遠信士、吉田新策義郷(真清院随縁信士 明治十九年一月七日)の何れかが、或いは両方が順次(兄のあとを弟が嗣ぐ準養子形式で)相続したと思われます。ここで岡本家の過去帳に新策義郷が載っていて真竹院泰遠信士の記載がないことから、真竹院泰遠信士は義敬の二妻が産んだ子、義郷は三妻岡本氏の子と考えられます。新策義郷の妻が「実浄院妙貞信女 明治十六年十月十五日 岡本當彦女組(當彦は常彦か?)」となっていますが、常彦は明治廿四年十一月廿三日に七十六才で亡くなっていますので、組が常彦の三十才くらいの時の子とすれば、義郷夫婦は四十才前後の若さで相次いで亡くなっていることになります。
官蔵は、真竹院泰遠信士か新策義郷か、いずれの子になるのでしょうか。官蔵夫婦の墓碑はキリスト教形式であったため妙泉寺に建てられず、大福の小村山にある佐藤家墓地の近くに建てられていた、公森家に嫁いだ柳が官蔵夫婦の墓参りのついでに佐藤家の墓も参っていたという話がありますので、官蔵の母は「真受院妙香信女 安政四丁己歳七月十二日卒 佐藤三・・兵衛信光娘於政(安政四丁巳 佐藤三郎兵衛信吉ではないか?)」ではないでしょうか。岡本家はクリスチャンに改宗していません。
彌右衛門以前は戒名と歿年の比較で並べてみました。



妹尾・大福の佐藤三郎兵衛家の墓所を探す過程で、大福を歩いた際、古市家から吉田家に嫁いだ人があることを思い出して訪ねてみました。上記の系図に真作、真策という通称の人がいますので、上記の系からの分家と思います。

菊屋

清左衛門――清左衛門――清三郎――+――豊太郎 ――元治  ――+――豊太
文政2   文政13  明治9  |  明治44  昭和10  |  昭和60
室     室     室    |  室     室若林氏  |  室
      室          |              |
                 +――泰一郎         +――正策
                    若林家嗣           
                                   室古市



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