藤井家・郡屋
都宇郡妹尾村



佐藤三郎兵衛家の墓を捜して妹尾を歩いていて見付けました。「妹尾町の歴史(昭和四十五年妹尾町発行、妹尾町の歴史編纂委員会)」で国学者藤井淡叟翁について紹介した文章に目を通し、翁の墓碑写真も見ていましたから墓地の同定は簡単でした。
「妹尾町の歴史」には下記のように記されています。

藤井家は槌屋町四八二番地に宏壮な居宅を構え苗字帯刀の家柄であった。淡叟の祖父正右衛門宣時から本姓佐藤を改め藤井を名乗るようになった。・・・同族藤井巻治の五男淡叟本家を相続し、・・・淡叟の墓は妹尾住田にあり」

四八二番地は他人の所有となっていますが、いまでも立派な建物が遺っています。



淡叟の墓を確認して、ふっと横の墓碑を見ると、「梶谷伊平次正次女梅」とありました。血縁の人の墓を見付けたのでその墓地に親近感を覚え、全部の墓碑文を書き写すことにしました。その結果をまとめたのが下記の系図です。

佐藤               藤井改姓       分家
荘吉宣久==政右衛門宣方――+――正右衛門宣時――+==巻治   ――+――男
明和8   吉田氏     |  文政8     |  保崎氏    |
室     文化9     |  室佐藤氏    |  明治11   |
      室宣久娘    |          |  室宣時娘   +――逸右衛門宣正
              +――遊歌      |         |  明治13
                 藤井正固妻   |         |  室阿部氏
                         |         |
                         |         +==硬
                         |         |  佐藤
                         |         |
                         |         +――宣蔭
                         |            本家嗣
                         |
                         +――女
                         |  井上義忠妻
                         |
                         +――廉之丞宣安==淡叟宣蔭==糸子  ==秋作
                            天保14   明治27  高田氏   高田氏?
                            室梶谷氏   室真鍋氏  明治41  昭和9

墓地に入って右手に豊島石製籃塔がありますが、碑文の確認は出来ないほど摩耗しています。ただ、かなり造りが良く、大きさもかなりなものですので、荘吉宣久の両親で初代夫婦のものかと思います。政右衛門宣方は吉田氏産とあり、妻の墓碑には宣方妻としかありません、宣久の娘に婿養子を迎えたと理解しました。吉田氏は古新田引船か、その分家で北大福新田の吉田氏(こちらは佐藤三郎兵衛家と縁戚)だろうと思います。

「藤井正右衛門宣時の室 佐藤三郎兵衛信興の娘絹 嘉永七年歿享年七十三才」という墓碑には驚きました。七年余捜し続けても三郎兵衛という先祖のいる佐藤家が見つかりませんでしたので、幻になりかけていた家ですが、碑文に深く彫り込まれた「佐藤三郎兵衛」という文字を確認して、「やはりこの近くに佐藤三郎兵衛が居たんだ!」と胸が高鳴りました。

帰宅してゆっくり絹の生年を逆算すると、大村官右衛門の日記に出てくる「天明二年 大福小とみ生」に一致しました。更に、分家、即ち淡叟の実家になる家の墓地にある「藤井千嘉明治十六年歿享年八十五才」は宣時の娘で婿養子を迎えて分家した人ですが、房重の日記の「寛政十一年 妹尾郡屋曾孫お・せ生万々歳」に生年がきれいに一致します。

つまり、大村官右衛門房重の長女が佐藤三郎兵衛信興に嫁ぎ、その長女が成長の後藤井正右衛門宣時に嫁ぎ、その長女(房重の初ひ孫)が寛政十一(1799)年に誕生したことまで、今から二百年以上前に起きた房重近親者の出来事を、房重の記録に基づいて私の脚で実際に歩いて確かめられたわけですから、ほんとうに感無量の出来事でした。この家の屋号は郡屋であったことが判ります。

大村官右衛門房重――お秀
           ‖
           +――絹(小とみ)
           ‖  ‖
    佐藤三郎兵衛信興  +――千嘉(お・せ)
              ‖
              藤井正右衛門宣時

正右衛門宣時の子が廉之丞宣安、この人に嫁いだのが梶谷伊平次正次の娘梅です。

岡山大学附属図書館所蔵、近世庶民史料目録 四、酒津梶谷家の書状リスト 梶谷伊平次宛の中に、
「藤井梅」三通、「藤井叔母」二通、「藤井恕平」二通、「藤井漕四郎」一通、「藤井淡叟」四通、「藤井来吉」一通
とあります。崩し文字はたいへん読みにくいのですが、藤井梅から梶谷家に宛てられた書簡に「廉之丞」という名が何度か出てきます。

上記「妹尾町の歴史」からの抜粋にある通り、廉之丞夫婦には子が居ませんでしたので、分家した姉千嘉の子淡叟があとを嗣ぎました。淡叟の妻は「浅口郡西之浦村真鍋伴蔵長女琴」となっています。真鍋伴蔵は児島下の町渾大防・高田家の系図を整理している時に出逢った名です。即ち、西高田年太郎の妻が連島町真鍋伴蔵娘となっていて、生年を計算すると、琴と高田年太郎妻は姉妹になります。子宝に恵まれなかった淡叟は妻の姪糸子を養女にしたのでしょう。糸子の墓碑には「児島郡下村高田年太郎二女明治三十三年藤井家相続」とあります。その跡は「藤井末世秋作 昭和九年歿享年三十八才 於秋田市」という墓碑で終わっています。西高田の系図の末尾に年太郎孫秋作という名が見られますので、上記のようにつないでみました。ご子孫はどこかに居られるのかも知れませんが、血脈は絶えているのでしょう。長い間祀られた形跡はなく、墓碑は草に覆われています。



淡叟の墓地の下に分家の墓碑が二基寄せられています。隙間から碑文を読んでみました。千嘉の婿養子は「保崎林八郎次男藤井正右衛門養子通称巻治」とあります。保崎氏は当新田か米倉辺りの家でしょうか。淡叟は巻治の五男ですから、千嘉にはたくさんの子がいたと思われます。しかし、墓碑は子の逸右衛門宣正(逸吉とも、巻治次男)までです。岡山市大窪の狩谷家の戸籍によると、硬は佐藤太治作次男で明治元年生藤井千賀養子となり養母千賀死亡により明治十六年戸主となったとあります。
千嘉は相続した次男宣正に先立たれ、本家の二従兄の子硬を養子に迎えたようです。しかし、その後硬は狩谷家の婿養子となっていますので、藤井の分家はこの時点で絶家となりました。硬は狩谷家の婿養子となりましたが終生「藤井」を名乗ったそうです。借金の取り立てが狩谷家にまで及ぶことを恐れたためとも云います。明治二十四年四月岡山県地主録をみても、妹尾に藤井姓はありません。

この家は佐藤三郎兵衛家の分家になると思いますが、諱の通字「宣」はノブと読め、三郎兵衛家や他の妹尾・大福の佐藤家一族が通字に使っていたと思われる「信」と一致するようです。墓碑にはそれぞれ数種類の家紋が入っていますが、最も多いのは「下がり藤に橘」です。佐藤S氏が妹尾佐藤一族の定紋と云われる「三つ星」を入れた墓碑はありません。
佐藤も藤井も何れも「藤」姓一族の代表に挙げられますが、この佐藤家はなぜ藤井と改姓したのでしょうか。その経緯を考える時に思い浮かぶのは、倉敷の古禄豪商瀬尾屋藤井家の系譜です。「杏葉紋の族譜」に、瀬尾屋藤井家は屋号から考えて岡山市妹尾方面からの移住者ではないかとありますが、瀬尾屋の歴代当主には諱に「信」の文字を使う人が何人もいます。仮に、倉敷の瀬尾屋藤井家と妹尾西磯佐藤三郎兵衛家が同族とすれば、既に江戸時代以前から西磯佐藤家には姓に「藤井」を用いることがあったと考えられます。
また、妹尾の西数キロ、早島の佐藤一族も諱に「信」の通字を用います。こちらも戦国時代末期からの系譜が明かですが、妹尾西磯佐藤三郎兵衛家と同族である可能性が高いと思います。
この様にしてみると、日本で一、二を争うほど多い姓ですが、少なくとも岡山県南に拡がる佐藤姓は室町、鎌倉と時代を遡ればかなりまとまって整理が出来そうです。更に、平安時代まで遡れば東北地方の佐藤姓とも一つになりそうですから、世間は意外に狭いということになるのかも知れません。


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