日枝(ひえだ)家
下道郡川辺村





守屋元の両親の墓碑を確認した時に、元の母が「川辺村日枝氏」となっているのを読んでから日枝家を調べてみたいと思いました。

真備町史に、
「脇本陣は数年前まで川辺駐在所になっていた。二階建で代々日枝氏宅の一部」
と書いてあり、脇本陣跡の写真も掲載されています。
更に、昭和五十三年五月に発見されたという幕末の川辺宿絵図には「脇本陣半十郎」と記載があり、町史の説明書きには、「脇本陣は日枝氏であるがこれには姓がない」と記されています。この絵図の解読書写文はこちらのページで紹介されていますが、これを見ると、脇本陣の近くに領主家臣日枝権左衛門という人も記されているようです。
日枝家のご子孫を探してお話をお聞きすることが出来ました。
「日枝家の先祖は日吉(ひえ)大社のある近江国坂本から出ているそうです。直系の子孫は現在のフジテレビ社長日枝久氏で、我が家は分家筋になるが、久氏には墓参に来られたときにお会いしたことがあります。宗旨は浄土真宗で、柳井原の内藤家とともに寺を建立(再建?)して維持していました。古い墓は(洪水で?)高梁川の中に埋もれてしまいました。江戸時代には本陣の加藤とともに脇本陣として宿駅の世話をしていました。明治より本家(中屋?)は造酒屋をしていました、分家は中西屋)といいました。」

下記の系図でもそうですが、日枝家の系図にも墓碑にも、半十郎という人が見あたりません。ところが、親戚になる箭田境の妹尾家に幕末に半十郎を名乗る人が出ています。この妹尾家の人が幕末維新頃に高梁川を隔てた黒田村の名主を勤めていることも古文書から判っています。黒田村の名主を勤めていた大熊家と妹尾家が縁戚になることも判っていますので、適当な人材が居ない場合、親族が代わって村役人や脇本陣役を行ったのかも知れません。

日枝家のお墓は川辺の共同墓地の他に、有井の宝生院にもあります。しかし、哲蔵と竹吉だけで、やはり古い墓碑は川底に沈んでいるのかも知れません。川辺宿は、高梁川と小田川が交わるところで、現代では想像を絶するような規模の洪水が起きていたようです。



柳井原原田家の調査を行ううちに、同所内藤家の檀那寺が倉敷の教善寺であることを知りました。日枝家の菩提寺も教善寺に違いないようですし、下記の系図のように縁戚関係もあります。

平成十三年秋、日枝家の系図を拝見する機会があり、墓石では判らないことをいろいろ知ることが出来ました。

日枝氏の先祖は桓武平氏畠山氏の流れで、兵衛尉久継という人が近江國比叡山東坂本に住み、元弘年中に北条高時が叛逆して後醍醐天皇が南都へ逃れた時、第一番に味方に参上した功によって日枝姓を賜りました。
これから更に代を下り、小万次常久(後号刑部)が芸州吉田に住んで、毛利元就の幕下となり、弓大将にて知行千石を給されています。この弟善之丞氏久が元亀元年に備中下道郡川辺に来住したとあり、常久の孫家久を以て川辺日枝家初代とされているようです。

川辺の共同墓地には、「倶會一處之墓、天保13年4月平助在久建之」という供養塔が建てられ、寛永二十年歿の助左衛門家久とその妻(万治三年歿)の戒名が彫られています。墓碑も参考に整理すると下記のような流れになるのではないかと思います。

助左衛門家久――助左衛門久全――助左衛門繁久――助左衛門久次――伝七郎安久――伊三兵衛元久――平介久次――+
寛永20    万治3     延宝2     元禄15    貞享5    宝暦7     文化6   |
                        室教善寺娘   室妹尾氏   室狩山氏    室阿部氏  |
                                                     |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+==安兵衛平久 ――+――平助在久 ――光三郎久敬――+――哲蔵    ――+――政衛
|  難波氏     |  弘化2    明治11   |  明治36    |  石井敬太妻
|  文政4     |  室原氏    室石井氏   |  室岡崎氏    |
|  室       |  室溝口氏          |          +――敬衛
|          |                +――始四郎     |
+――女       +――里越            |  太田家嗣    +――久雄
|  妹尾辰之介妻  |  阿部章備妻         |          |  大正5
|          |                +――竹吉      |
+――女       +==對治久泰          |  明治36    +――経久   ――+
   守屋隆常妻?     阿部氏           |             昭和15   |
              後離縁           +――美知         室小宮山氏  |
              室平久娘             片山敬三郎妻            |
                                                 |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――女
|  畑家へ

+――女
|  中山家へ

+――男
   室滝沢氏

日枝家所蔵系図には守屋隆常妻の記載はありません。また、在久は平久兄弟で分家したように書いてあり、「此家久敬ノ後哲蔵跡取墓守」とあります。分家或いは単なる墓守が先祖の供養塔など建てられません。共同墓地の真ん中ですから世間体から云っても不可能だと思います。平久と久敬の間に在久を入れないと、親子の年代合わせにも無理が生じます。従って、勝手に少し手直しさせていただきました。
その後、久敬長女美知が西江原村片山敬三郎に嫁いでいることを知りました。これも日枝家所蔵系図にもれていますので、それより数代前に三田守屋家に嫁いだ女性が漏れていても不思議はないと思いました。片山家は黒崎の吉田家を介して大島村の渡邉家とつながり、その渡邉家に太田始四郎の娘が嫁いでいます。

久次(文化六年歿年九十一)の生年と家久の歿年から計算すると、この間に二〜三代あると思いますが、五代は多すぎると思います。兄が早世した跡を嗣ぐという準養子の代が二代くらいあったのではないでしょうか。
毛利家の落ち武者(=高松城水攻めの負け組)が高梁川以西に引いて定住したというのは良く聞きますし、川辺本陣の難波家もそのような経緯があります。平久は年代からいうと難波総七能静(文政七年歿年六十一)の兄弟になると思います。

分家

勘兵衛久光――幸蔵唯久――庄助貞久――+――好松
寛政8    享和1   文政12  |  安政5
室      室内田氏  室     |
                   +――吾吉  ――+――庄兵衛
                      明治1   |  明治22
                      室中嶋氏  |
                            +――治吉  ――+――光二
                               明治33  |  大正13
                               室浅野氏  |
                                     +――万寿太
                                        昭和15
                                        室

勘兵衛久光は平介久次の兄弟くらいで分家したのではないかと思われます。川辺の墓地では、本家よりも古い年代の墓地がありますので、おそらく本家と分家の墓地はもともと別所にあって、本家の墓所の方が洪水でひどいやられ方をしたのでしょう。


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