池田家
下道郡辻田村





備中下道郡辻田村(岡山県吉備郡真備町)の庄屋を勤めていた家は「大池田」と呼ばれ、明治の中頃に出郷したそうです。吉備郡誌によると、岡田村辻田(岡田領)の正徳年中の庄屋に「池田氏か?重宝記」また、「池田氏、古庄屋と称す」という記録があります。

「大池田」の墓にはたくさんの墓碑が建っていますが、各々の生存年代を並べて整理すると、1区画の墓地の中に2家分の墓碑が建っているように思われます。仏名に清信士、清信女が付いているものと、居士、大姉が付いているものに分けてみました。これは射越屋の系図作りにも利用したテクニックで、寺の坊さんが仏名を付ける時にはその家の先祖の仏名を参考にしているからです。家が隆盛になると寺への寄進なども増えるためか、信士から清信士、居士、院居士と仏名も格上げとなることもありますが、江戸時代の仏名をいろいろ見ていると、分家した冒険心に富む初代、2代目辺りの出世によって仏名が格上げとなることが多いようです。本家は代々受け継いだ資産をまず第一に守ろうとするためか冒険はやりません。家によっては、冒険心に富んだ兄(嫡子)を追い出して、堅実な弟に相続させているところさえあります。質素な仏名、墓碑の方が本家筋と考えればほとんど間違いはありません。

この家からは地理学者として有名な古川古松軒の母が出ていますが、古松軒8才の享保18年に母勝が死去し、その後母方の祖母に育てられました。古松軒の記録によると、祖母は佐々井氏、祖父は池田吉左衛門のようです。
池田家墓地に、
寂室智明清信女、明和3、佐々井氏女
という墓碑が建っていて、吉左衛門は享保8年と延享2年に亡くなった徳則、興則2人の墓碑が確認できます。この2人と次代の忠五郎恒則はすべて享年不明ですが、恒則の妻寄の歿年と享年から計算すると、勝は興則の子となると思います。
なお、古松軒が眠っている総社市新本の橋本家墓地(宅源寺)に、
頓覚寿證大姉、享保18、2、8歿
という墓碑があり、橋本安左衛門室辻田村池田半七娘勝と彫られています。半七勝則だと「古松軒8才の享保18年に母勝が死去」という記録と矛盾しますので、興則もまた半七と名乗った時期もあったのかも知れません。
大池田の墓地にも頓覚寿證大姉の石塔が建てられています。

吉左衛門徳則――+――吉左衛門興則――+――勝
享保8     |  延享2     |  橋本護次妻
室宍戸氏    |  室佐々井氏   |
        |          +――忠五郎恒則――+――孫兵衛義則――+――吉太郎貞則
        |             明和8    |  文政8    |  文化14
        +――半七勝則       室三宅氏   |  室田上氏   |
                             |         +――光蔵光則
                             +――半兵衛正則  |  明治11
                             |  寛政12   |  室木田氏
                             |         |
                             +――藤作宣則   +――女
                                文化3    |  山路之利妻
                                       |
                                       +――芳蔵
                                          嘉永6

ある小さな墓碑があり、童子墓でもなさそうなので目を凝らして読んでみると、他家に嫁いだ義則の娘の墓碑が見つかりました。

○○院諦譽○○如實大姉、備後国鞆山路官左衛門妻、天保2歿、22才

この人の墓碑は、数年前に福山市鞆町阿弥陀寺で確認していました。山路家では官左衛門を歓左衛門(之利)と書いています。之利の3番目の妻で、この人が亡くなったあとに、児島郡天城村の中島富次郎栄武の娘順が入っています。
備後鞆津というと昔はたいへんな遠方ですから、若くして亡くなった娘を哀れんで、母(嘉永3歿)が供養塔を建てたものと思います。こういうように、他家に嫁いで亡くなった娘の墓碑を実家に建てている例はあちこちで見られます。

池田家一族の墓地への上がり口に焼香場があり、吉備(下道郡)八十八ヶ所第五番池田観音堂にもなっていますが、ここの石塔に興則の名が刻まれています。

半七勝則――半七知則――+――與兵衛重則
安永6   天明8   |  寛政8
      室福田氏  |  室荒木氏
            |
            +――女
            |  安原正郷妻
            |
            +――女
            |  則武勝善妻
            |
            +――清助寛則 ――+――恒蔵直則
            |  天保9    |  文政3
            |  室田邊氏   |
            |         +==桂助茂則==永則
            +――女         橋本氏   石川
               三宅徳修妻     安政6   明治4
                         室寛則娘  室中島

集落の奥にある池田神社の手洗い鉢に池田半七の名が刻まれ、また、同町市場の西園神社に石燈篭を寄贈しています。いまも、市場には数軒の池田姓があり、辻田の池田と関係がありそうです。
上記の墓碑区画の東側(B区画)と南側の下段(C区画)、及び西側の下段(D区画)に明石姓と池田姓の混った墓碑群があり、これらは同じ株のように思いました。

Cの墓地には、寛永8年と入った五輪塔から天和1、延宝7年、宝永1、享保8、元文3というように、ここにもかなり古い年代からの墓碑が認められます。俗名が確認されるのは、寛保2年歿池田七郎右衛門からですが、寛延2年歿明石庄左衛門という墓碑もあります。だいたい下記のようになるようですが、暉雄で9代ということですから、単純計算で行くとC区画にある延宝7年歿の五輪塔で祀られている人あたりが初代になりそうです。この五輪塔には○○大居士と彫ってあります。信成の弟信義は岡田藩伊東家に仕えていましたが、明治3年に藩主の命により谷一兵衛の家の祭祀を引き継いでいます。谷一兵衛というのは、藩主の先祖丹州公が大阪冬の陣で亡くなった盟友だそうで、260年ほど藩主自らお祀りをされていたようです。

助左衛門――喜左衛門――+――藤七信則――+――七郎二信成――暉雄―――+――清
文化3   天保13  |  明治4   |  大正7    昭和39 |  昭和20
室阿部氏        |        |  室小林氏        |
            |        |              +==節夫
            |        |                 山本氏
            |        |                 室河田氏
            |        |  冒姓谷
            |        +――作次信義――義夫
            |           大正2   昭和21
            |           室坪井氏  室平松氏
            |
            +――関太郎――+――金太郎 ――+――吉五郎 ――孝一
               慶應1  |  明治27  |  昭和2   昭和61
                    |  室高見氏  |  室服部氏
                    |        |
                    |        +――和平  ――弘
                    |        |  昭和13  昭和20
                    |        |  室中島氏
                    |        |
                    |        +――宗治
                    |        |  昭和27
                    |        |  室横田氏
                    |        |  室阿比留氏
                    |        |
                    |        +――濱吉
                    |           大正4
                    +――國治
                       明治17

D区画墓地は岡田藩御側用人を勤めた家です。岡右衛門は備中高松花房家臣江守家から養子に入った人で、安田一学とともに新本義民騒動(一揆)の時の藩側の責任者となっています。安田一学は家のページでふれています。

明石                池田
之輔則重――新五右衛門範門――+==岡右衛門正房――環範也――遊亀  ――範直 ――安三
退休    童也       |  江守氏     嘉永2  明治42  大正2  昭和58
宝暦10  天明3      |  文化5
室濱氏            |  室小嶋氏
               |
               +――新五右衛門範卿
                  文化5

CとDの墓碑には「井桁菱に左巴」の紋が入っているものがあります。D家に遺る系図では、先祖は源頼光五世瀧口泰政で、代々摂津池田(大阪府)に住んでいたようです。備中にやってきてからは毛利家に仕えました。系図には源姓とあるそうですが、上記範卿の墓碑には「藤原」と彫ってありました。姓の由来が摂津の池田であるとすると、現在の真備町辻田の池田という地名はこの一族の土地という意味で付けられたということになるようで、姓を地名に下した珍しい例かも知れません。

摂津の池田氏というと荒木村重に謀反を起こされて追われた池田筑後守勝正を思い出します。村重も信長に逆らって敗走したときに毛利家を頼っています。

大池田を除いて、他の株家の墓地全てに「明石」姓の墓碑が確認されています。この池田地区の背後(北側)にあった中世の伊予部山(総社市下原)城主が明石氏ということですから、この明石一族との深いつながりがあって姓を冒したものかも知れません。総社市下原というところに現在も明石姓の家が何軒かあって、伊予部山の上にあった古墓を池田の集落内(下原地区)に移転させてお祀りされているそうです。


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