菊池家
阿哲郡上砦村
應輔亮和は筑後の人で、安達氏との間に出来た理喜という娘に播州龍野の牛丸氏の子で、播州佐用で医者をしていた正因を婿養子に迎えました。寛政7年、幕府代官早川八郎左衛門正紀が真庭郡久世村に社会強化を目的とした久世典学館という学校を開いたときに、校長として正因が迎えられました。
應輔亮和――+――男 夭死 室安達氏 | +――好直正因==隆平慎――士郎文理――+――驥 夭死 ==大麓 ――+――多美 美濃部達吉妻 室亮和娘 金治氏 天保8 | 箕作氏 | 室豊福氏 室後藤氏 +――秋坪 箕作阮甫の養子 室福田氏 +――千代子 鳩山秀夫妻 | | +――津勝山藩士篠崎清則妻 +――泰二 | +――冬子 末広巌太郎妻 | +――英子 平山復二郎妻 | +――健三 | +――正士 | +――百合子 川村秀文妻
正因にも子がなく金治(かなばる)慎を養子にしますが、慎も早世したために文理が嗣ぎました。一方、文化14年に久世は天領から津山藩領となりましたが、典学館はそのまま続けられ、文政5年に教諭所と改めて久世から砦部に移転されました。文理は15年間教職にありましたが、その死去を以て教諭所も廃校となりました。
教諭所は上砦部字女高長(めんたかおさ)にありました。敷地3畝11歩、学田1反5畝26歩、付属宅地1畝12歩、その他の付属地5畝21歩となっています。校舎の古材は上水田の永宝寺本堂に使われているそうです。敷地は下砦部の庄屋荘氏、この親族になる児島味野の野崎氏、水田の杉氏と転々と人手に渡り、明治37年になって菊池大麓の所有となりました。
文理の妻後藤氏は津山の平田屋一族ですが、成書には「砦部で新見藩典医を勤めていた後藤氏」とあり、「調剤していたという藁ふきの長屋だけが現存し」などという記述がみられます。一体どういう経緯でこの様なことが記されるようになったのか不思議です。
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