木村家
窪屋郡生坂村
生坂神社の棟札、明治三年の生坂村宗門帳、幕末の生坂村寺子屋教師名の中にも木村姓が見られます。
しかし、現在の生坂にはそれらしい家が全くありません。これを不思議に思いながらも手がかりがないのでそのままになっていました。
その後、平田村庄屋難波家の分家が黒崎村に屋敷を構えて庄屋を勤めていながら、その墓地は江戸時代を通じて平田村にあったということを知りました。もしかしたら生坂木村家も中庄木村氏の分家で、墓地も中庄にあるのではないか、生坂木村家と間野家の縁故が清水家過去帳に記載された木村甚左衛門、才右衛門などの関係を解明する鍵になっているのではないかと考えました。中庄の木村一族の墓地を訪ねてみましたが、生坂村の史料に見えるような俗名は見あたらず、そのまま時が経ちました。
平成十一年十一月のある日曜日、清水家の先祖が享保の頃まで住んでいたという倉敷市端生坂(=鼻生坂)に現在も住んで居られる間野諸家の調査を思い立ちました。
先ずは墓碑から調べてみようと思い、前方に拡がる水田の中に立って北側の山を見渡しました。何度も見ている山ですが、その日は、少し東寄りの山の中腹に立ち並ぶ立派な墓碑が目にとまりました。
「間野姓の墓地かもしれない!」と思って、さっそく上がってみると、文字の判読も出来ないような大きな五輪塔の他に、木村何某、守屋何某という多くの古い墓碑が立っていました(下写真)。
一つずつ墓碑を確認するうちに、この墓地に眠っている人たちこそ代々生坂村役人(五人組頭)を勤めていた木村氏であることが判りました。前の畑を耕しているおばさんに墓地を管理されているという方を紹介していただきました。
生坂木村の本家は中島村(今の中庄)であるとのこと、私が七年前に大まかな見当をつけて訪ねた木村家に間違いないことが判りました。
生坂木村家は一旦絶えたので、三田で大庄屋を勤めていた槇山守屋家から養子を迎えて跡が続いています。その養子の長男が木村を次男が守屋を名乗りました。もとの屋敷は清水家の旧屋敷のある高台に向かって右側のやはり少し小高い見通しの利く場所で、墓地は第二次大戦前までは平和塔の所にありましたが、戦後今のところに移転されたそうです。
岡山大学所蔵、池田家文庫の宝永五年閏一月二十四日の百姓帳によると、
壱軒
一家内四人内男二人
女二人 瀬平治
内
壱人 瀬平治 歳五十二
壱人 女房 歳四十九
壱人 娘しゆん 歳二十七
壱人 孫勘平 歳十一
という家族構成でした。
墓碑によると、瀬平治は享保十一年に七十三才で亡くなっています。勘平は享保二年に二十才という若さで亡くなっていて、この妻も享保二年に亡くなっているので、勘平夫婦に子が居たのかどうか微妙なところです。いたとすれば、墓碑の並びと年代からみて明和四に亡くなっている八郎太夫が勘平の子になるようです。百姓帳に記された瀬平治夫婦に娘と孫という家族構成から、娘しゅんの夫(養子婿)は退去したのだろうと思います。早く亡くなったのでしたら墓碑があるはずです。
明治三年の宗門帳では、
一、藤七 印 歳五十八
子良三郎 印 同三十一
嫁 印 同二十二 良三郎妻
孫岸太郎 印 同四 同人子
子木村真蔵 同二十三 郷士(四月二十五日願上第五兵団大隊長御支配へ罷成宗門等諸事共御支配にて御改に相成候に付村方人馬帳外に帳○○に付被仰付候者尤旦那寺其留相用候得共其節迄素り東雲院(印)旦那 見合)
合五人内男四人女壱人 印(東雲院) 印(貞基) 牛一疋 印
という記録が見つかりました(○○は判読不明)。
墓碑と上記の資料から系図を描くと
瀬平治 ――某 ――+――勘平 ――八郎太夫――+――金蔵 享保11 室瀬平治娘 | 享保2 明和2 | 明和7 室 | 室 室 | 室難波氏 | | +――登與 +――女 | 木村瀬兵衛妻 | +――儀三郎 | +==周右衛門――+――良左衛門尭正――+――藤七経正――+ 守屋氏 | 天保10 | 明治40 | 文化3 | 室岩田氏 | 室中島氏 | 室伊丹氏 | 室伊丹氏 | 室土岐氏 | | | | +――弥平太 +――廣吉 | | 守屋家嗣 | | | +――茂助良資 | 石原家嗣 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――良三誠正――+――岸太郎――隆 | 明治12 | 大正9 昭和59 | 室 | 室 室 | | | +――八郎 | 昭和19 | 室 | +――真蔵
新しい累代墓に彫られた家紋は「四つ目結」です。
だいたい上手くつながったようですが、岡山市日近の石原家に、
「石原茂助良資、窪屋郡生坂村木村氏母足守伊丹氏、文化十三年四月廿一日歿年三十九、此経院持法日喜信士」
という墓碑があります。尭正後妻が伊丹氏なのですが年が合いません。石原良資の親に相当する年代の墓は、金蔵と周右衛門しかないのですが、金蔵妻は平田難波氏で、やはりうまく合いません。難波氏は文化九年に亡くなっていて結構な長命であったようです。周右衛門の妻の墓碑が見あたらず、夫が亡くなった後に後夫を迎えるということもありますから、周右衛門は金蔵妻難波氏の後夫とも考えられますが、そうすると石原良資の墓誌と矛盾してきます。どうやら足守の伊丹家を調べる必要もありそうです。
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