神原家
上房郡高梁町





清水家所蔵の過去帳に
「華玉妙珍信女 貞享三年・月・日 神原長十郎妻 淨土宗松山寿覚院にお墓あり」
との記録があります。
上房郡誌を開いてみると、確かに同名の寺があり、地図でも現存することが判りました。
平成元年の七、八月頃でしたでしょうか、父に寿覚院にお墓探しに行ってもらいました。本堂の裏側にある墓地を反時計回りに廻り、見つからなかったので、逆に戻る途中で見つけたそうです。墓碑には、
「花玉妙珎信女 貞享三年・月・日」
歿年月日も戒名も見事に一致した墓碑が見つかり大変嬉しく思いました。
この墓碑は上写真背後の土中に埋もれていたものを掘り返され、N家の墓碑として祀られています。
後ろに青い稲の穂がのぞいていて、水田であることが解りますが、大雨の度にこの境が切れて墓石が次第に埋まって行ったそうです。夫の長十郎の墓碑は未だに見つかっていませんが、おそらくまだ背後の土の中にあると思います。

妙珍(妙珎)信女の妹は小田郡矢掛町小田の真安正利に嫁いでいることが判っていますが、その人の墓碑も禅源寺の墓地で土中に埋まっているようです(こちらは夫の墓碑だけ日の光を見ている)。
不思議な因縁を感じてしまいますが、妙珍(妙珎)信女の墓碑は、境内墓地整理後も祀られています(下写真 平成十六年九月に確認)。



寿覚院の表に掲げられた案内板に
「成羽藩主山崎家治が祖父堅家の母の法号を寺号とした寺を成羽に建立しました。寛永十五年、家治の天草移封に従わなかった一部家臣達が寺と共にこの地に移りました」
と書いてあります。
長十郎の先祖も子孫も不明ですが、神原家は山崎家の家臣であったと思われます。
今のところN家との親族関係を証明するものは見つかっていませんが、明治初年頃の境内墓碑配置図によると、N家の北隣が空白になっています。おそらくN家もかつて山崎家の家臣で、両家はよく知った間柄であったことには違いありません。

長十郎 ――+――とめ
元禄6   |  石原義芬妻
清水氏  |
      +――女
      |  山川信光妻
      |
      +――女
         助左衛門妻

神原長十郎夫婦には三人の娘があり、長女は備中国窪屋郡生坂村内西坂の石原茂一兵衛義芬に、次女は同郡同村の山川恵左衛門に、三女は同国浅口郡西阿知村の庄屋岡助左衛門に嫁いでいます。


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