清水(間野)家・久保屋
窪屋郡生坂村


倉敷市史第八冊(永山卯三郎編)、備中の部、村役人一覧(1143頁〜1149頁)、及びこの原稿を書いた間野尚明家の系図を参考にして、一族の墓誌、位牌、過去帳を元に作成したのが下記の系図です。
源左衛門貞家以降は位牌も過去帳も揃っていて歴代当主のつながりは間違いありませんが、それ以前は十分な検証が出来ていません。。

源      清水
   義仲――太郎義高――左近義季――+――女
寿永3    文治2   寛喜1   |  早世
室中原氏   室頼朝娘  室三浦氏  |
                   +――左衛門為頼――四郎左衛門義治――+――五郎左衛門治興――+――女
                      弘長3    永仁6      |  元徳2      |  首藤清次妻
                      室新田氏   室佐藤氏     |  室楠氏      |
                                      |           +――希一郎貞興――源太郎義信――+
                                      +――六郎義教     |  貞治6    應永16   |
                                         新田家嗣     |  室江間氏   室大友氏   |
                                                  |                |
                                                  +――二郎高信          |
                                                     住河内国          |
                                                                   |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

|                          間野
+――慶之介義員――八郎高貞――源太兵衛貞氏――+――徳兵衛貞元――+――源次貞時
   永享12   長享2           |  天正10   |  間野家嗣
   室佐々氏   室畠山氏  室蒲生氏    |  室日畑氏   |
                        |  室佐々木氏  +――源左衛門貞宗――+――源左衛門貞家 ――+――作兵衛家明
                        |            文禄1     |  寛永11     |  黒瀬家嗣
                        +――若狭守?      室京極氏    |  室黒瀬氏     |
                           分家                |           +――治郎兵衛  ――+
                                             +――女?          慶安5     |
                                                犬飼孫左衛門妻     室       |
                                                                    |
+―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――友仙
|  元禄1

+――文左衛門  ――+――源太兵衛貞秋 ==利八郎貞ェ――+――多利助貞義  ――+――槙
|  元禄5     |  享保4      石原氏    |  寛政14     |  中島宣光妻
|  室氏?    |  室小川氏     宝暦11   |  室井手氏     |
|          |           室貞秋娘   |           +――茂利治貞本――文太夫貞秀――+――久良
+――女?      +――お以ち?     室篠井氏?  +――さき       |  嘉永6    明治2    |  守屋元秀妻
   土岐光房妻   |  国富九郎祐妻          |  石原常英妻    |  室太田氏   室則武氏   |
           |                  |           |         室守屋氏   |  清水
           +――知亮              +――數治郎清ェ    +――茂兵衛    室難波氏   +――利太郎貞基――+
              東雲院主            |  宝暦8      |  赤堀家嗣後            明治29   |
                              |           |  分家笘屋             室梶谷氏   |
                              +――女        |                          |
                              |  富田七右衛門妻  +――清                       |
                              |           |  藤井飯瓶妻                   |
                              +――女        |                          |
                                 篠井幸弼妻    +――女    ――定次郎?             |
                                          |  友野國清妻  藤井               |
                                          |                          |                                          |                          |
                                          +――勇次                      |
                                             安永9                     |
                                                                     |                                                                     |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――良一郎
|  安政4

+――石太  ―――+――稼太郎   ――+――晋一郎  ――S   ――+――Y    ――K
|  明治27   |  昭和13    |  昭和20   室松原氏  |  室
|  室渡邉氏   |  室江田氏    |  室行森氏         |
|         |          |               |
+――松野     +――斐       +――良平           +――女
   守屋金造妻  |  溝手基太郎妻  |                  吉永
   溝手重吉妻  |          |
          +――淑子      +――S  
          |  溝手萬之助妻  |
          |          |
          +――真喜      +――K
             明治27

尚明家系図には清和天皇から記してありますが、義仲の父義賢までは一般歴史書に詳しいので省略しました。義高は十二、三才で頼朝に殺されたことになっています。系図には義季の母も頼朝娘とありますが、八才の娘が子を生むことはありません。
ただ、義季は義高が討たれて数ヶ月後の○月○日に鎌倉で生まれ、尾張国熱田大宮司家に匿われ、成人して近江国佐々木氏に仕えた。亡くなったのが寛喜元年○月○日であるとまで書いているので、全くの架空の人とも思えず、義仲の末子(季子)か、姉妹の子が義高の跡を継いで清水姓を名乗ったのではないかと考えています。
系図に、義仲の妹「於菊姫  頼朝之養女ト成之鎌倉江下ル」の記述はありますが、義仲の子、兄弟姉妹、甥や姪など近親者についてはよく判っていません。

為頼の母は三浦義景娘、伯耆守義治の母は新田義宗娘、治興と義教兄弟の母は佐藤元信娘、いずれも歿年月日の記録があります。多くの諸家系図を見てきましたが、この時代にここまで書いている系図は珍しいです。

六郎義教は、
「新田義一養子ト成十四歳時初陣上州今戸ニ而敵将五人討取尚足利氏与戦建武三年五月足利氏之兵東犯ス湊川ニ而無比類戦功度々有之宇治盛重与組打討ル行年三十二才」
とあり、昭和十年五月、尚明は「南朝忠臣清水義教卿六百年祭挙行供養」を行っています。
当時、一族は南朝方であったのか、希一郎貞興の母は楠正員の娘、正員は正儀従弟とあります。

義信の母は江間頼時娘、
「應永十六年九月十七日備中松山城主三村親治謀状ヲ以小早川隆景戦謀注進十月二十七日出陣」
この辺りから中国路の勤務が始まったようです。

義員の母は大友有久娘、高貞の母は佐々康政娘、貞氏の母は畠山義持娘、貞元の母は蒲生氏とあり、近江と備中での合戦参加から備中での記述が増えていきますが、倉敷市史の記述と若干差異が見られます。

近江佐々木氏の力の象徴だった観音寺城が信長の侵攻で落城すると、源左衛門貞次、貞家と二代にわたり、備中成羽竹井家へ仕えています。竹井氏は近江国番場寺の過去帳(鎌倉末期)に見られる備中の豪族ですから、その縁を頼ったのでしょう。

更に、貞家は、
「備中成羽竹井家敗北シ而同国賀屋郡宮内ニ落去後亦元和元年窪屋郡東阿知鼻ニ住ス」
とあります。

清水家所蔵の「生石帯刀同治勝家系」という文書の存在から、貞家は、その後宇喜多家の将生石治勝配下となり、元和元(1615)年、生石氏から安堵された備中国窪屋郡東阿知村(後の生坂村、現在の倉敷市生坂)の阿知ヶ鼻(現在の端生坂)に帰農して村の庄屋役を勤めたようです。妻は東阿知村の黒瀬氏となっています。

この源左衛門の名が入った元和六(1620)年の古文書が現存しています。山根川という高梁川から取水する農業用水路の使用に関して、上流管理役の子位庄村(窪津)又太夫、又右衛門に対して、(高尾)弥兵衛と連名で宛てたものです。
水は稲作にとって最もだいじなものですから、昔から水をめぐる争いは絶えませんでした。水の喧嘩は死者が出るほど激烈なものだったといいます。このような争いに対外的交渉にあたったのは村の名主(庄屋)でした。
なお、この文書は現在の倉敷市生坂がかつては「東阿知村」と呼ばれていたことを示す貴重な郷土資料でもあります(参考)。

吉備郡誌の庄屋一覧に賀陽郡川入村(岡山市川入)の庄屋犬飼家初代孫左衛門(寛永十三年歿)の妻が生坂間野氏となっています。清水家所蔵の「生石主水治家同帯刀家系」という文書末尾に、治勝家人として犬飼某と間野源左衛門の名が見られますので、源左衛門貞家の姉妹が犬飼家に嫁いだのではないかと思われます。

源左衛門貞家の妻からはじまり、治郎兵衛、文左衛門、源太兵衛、各々の夫婦の戒名に、二代、三代、四代と付記された過去帳の切れ端が遺っていますので、定住初代から現代までの直系当主の続柄に間違いはありません。源左衛門貞家以前は紛失したようです。
友仙は本名ではなく号のようですが、初代、二代夫婦と共に合祀された位牌がありますので、上記の位置に入れています。この位牌はおそらく、鼻生坂間野家(現在の清水家)が本家であると歴史に残そうと意図して、後代に作り直されたもののようです。

尚明家所蔵系図によると、源左衛門貞家の長男作兵衛(多左衛門)家明は、母の実家黒瀬家を継ぎ、次男治郎兵衛(次郎兵衛)が本家を相続しました。

定住十一代稼太郎の妻多喜野から扇形に拡がる先祖とその血縁者を調査していく中で、岡山市富原の土岐家系図に出逢いました。土岐與左衛門光房妻が間野氏とあり、その娘薫が三田守屋来右衛門に嫁ぎ、更にその息子が守屋家を相続したことが記されていました。この守屋家は三田の槇山守屋家で、清水家やその株家間野家、重縁関係にある石原家とも度々縁戚関係を重ねた家ですから、土岐光房妻を上記系図に組み込んでみました。

文左衛門妻は西坂石原家の過去帳(福田新田之過去帳)に「岡 娘」と注記があります。石原文左衛門貞義妻の下にも「西阿知  岡 娘」と書いてあり、三田守屋家の忠左衛門直宗妻が同世代で、墓碑に「岡助左衛門娘」とあるので、前後の縁組みも参考にして、浅口郡西阿知村で助左衛門を襲名して庄屋を勤めた岡家と考えています。

定住から三代の墓地は、この地方独特のちょっと変わった家型墓碑(ラントウ=籃塔、龕洞=ガンドウなどと呼ばれる)になっています。

五三兵衛家の系図を確認するため、窪屋郡笹沖村小川氏系図を調査した時、小川八左衛門満留(実は阿曽沼氏で、粒江小川九郎右衛門満遠娘の婿になり笹沖に分家)娘が、「生坂村間野與三次妻」となっているのを発見しました。当時の株家を全て検討してみても他に該当者がいないので、上記系図のように組み込んでみました。

早島町国富家系図の中に「九郎祐妻 生坂間野氏娘」という記録を見つけ、ご子孫に問い合わせてところ、実家は生坂間野五三兵衛と聞いている、生坂の間野は(高松城)水攻めの時、秀吉に日傘を献上したと聞いているとのことでした。この女性は宝暦十年に九十二歳で亡くなっていることから、源太兵衛貞秋と同世代の人になると思います。国富家はもと鳥羽村(倉敷市中庄)に住んでいましたが、寛文三年頃に早島村久々原の干拓が完成したので、宝永六年に九郎祐は久々原へ移住しています。
源左衛門貞家が仕えた生石氏は、高松城を取り囲んだ毛利方の城の一つである加茂城を守っていましたが、秀吉方の誘いを受けて寝返ります。司馬遼太郎の「播磨灘物語」にこの経緯が記されていますが、間野が秀吉に日傘を献上したという話は「生石主水治家同帯刀家系」という文書を裏付けていると思います。なお、この文書の記述は、吉備津彦神社大守王藤内家の系図ともよく一致しています。

清水家所蔵の過去帳に、
「権大僧都法印知亮 東雲院主 宝暦三年歿年七十八」
というものがあり、生坂東雲院墓所に該当墓碑が建っています。知亮のお墓の型は清水家の墓と同型で、清水家から出た人と判断しました。

いまでも、端生坂の屋敷跡には野面積(ノヅラヅミ)で組まれた石垣や井戸の跡と思われる石組みが確認されます。背後は鬱蒼とした竹薮になっていて、鬼門の方角に生坂神社が祀ってあります。この神社は、もともと阿知ヶ鼻先端(今の平和塔の場所)にあって、源平合戦の頃は前の海上を航行する船の目印になったほどの大社だったそうです。阿知ヶ鼻(アチガハナ)の対岸は万寿ヶ鼻(倉敷市中庄百鳥ヶ鼻)になり、屋島の平家を攻めようと木曽義仲が陣揃えをした萬寿ヶ鼻とはこの百鳥ヶ鼻(モズガハナ)のことです(平家物語より)。
生坂神社の由来書によると、社の遷宮は慶長年中で、清水家の先祖が阿知ヶ鼻に定住したのはこの頃と思われます。社の背後に屋敷を構えることを避け、社を後の山腹(清水家の所有林)に遷宮したと考えています。

源太兵衛夫婦の墓地は先の三代とは少し離れた西にあり、ここには「間野氏周意軒」他の墓碑もありますが、清水家には周意軒の位牌も過去帳への記録も全くありません。恐らく分家の人だろうと思います。ここは山の斜面になっていて、背後の土が崩れて一部埋まっているように思い、発掘したところ土中から数基の墓碑が出てきました。墓地の全体の形が三角形とか鍵型になっていて不自然な場合には、こういうこともあります。

宝永五(1708)年の家族構成は(岡山大学池田家文庫「生坂村百姓帳」)、

壱軒
一家内弐人内男壱人
      女壱人      源太兵衛
    内
 壱人    源太兵衛   歳三十七
 壱人    女房     歳二十三
  牛壱疋

このあと夫婦に女の子が授かりますが、妻は生まれたばかりの女子喜與を残して亡くなり、喜與が十歳にもならないうちに源太兵衛(貞秋)もまた亡くなりました。

喜與は家財と共に親族の五三兵衛義明に引き取られて育てられ、五三兵衛実家になる同村西坂の石原家から婿養子利八郎を迎えて夫婦となり、長男多利助貞義が誕生しました。これ以後十代も男子の嫡孫が続きます。

利八郎、喜與の夫婦は五三兵衛屋敷の東隣にあらたに屋敷の普請をはじめ、約二年の歳月を経て、享保十六(1731)年に完成しました。喜與は長女「さき」の出産後間もなく亡くなります。この夫婦の墓碑は、向かって右(東側)に喜與、左に利八郎の戒名が彫られています。家つきの娘とはいえ、女の戒名が右に彫られた墓碑はたいへん珍しいのですが、この墓の建立には五三兵衛が深く関わっています。墓地が造成されてから、清水と間野の両家で一番最初に亡くなった喜與の墓碑を東半分の中央に建てさせているので、右に喜與の戒名を入れさせたのは、方角にも絡めた五三兵衛の配慮ではないかと思います。屋敷も墓地も本家を東、分家を西というように配置しているようです。

利八郎は、旧屋敷の所有林内に建てられていた神社地の所有権を神職から尋ねられ、故事を調べて役所に書類を提出しています。この経緯を記した書類は多数遺っていますが、後の調査で、これらを記したのは、福田新田に移住した、利八郎実兄石原小右衛門であることが判りました。事件は、寛延二(1749)年三月、五三兵衛の調停で生坂神社の社地を利八郎から神職小郷内蔵介に寄進する取り決めで決着しました。

多利助は成長して、数代分家が世襲していた生坂村の庄屋職を引き継ぎました。以後、茂利治貞本、文太夫貞秀、利太郎貞基と引き継いで明治維新を迎えました。

利八郎の後妻の墓碑や位牌は確認できていますが、実家はいまのところ不明です。児島郡柳田村篠井家の墓誌によると、作左衛門幸弼妻が「間野氏」とあり、その父市右衛門幸孝が西坂石原家の過去帳(福田新田之過去帳)に記載されています。幸弼妻の実家とすれば、年代比較から多利助貞義の妹となり、利八郎の後妻が篠井から来ていれば、そういう縁組みの可能性もあるかと思って、上系図に組み込んでみました。
なお、吉備郡誌掲載の生石家系図によれば、生石主水治家の知行所が、備中加茂村、三本木村、三田村、生坂村、備前児島柳田村となっていて、戦国末期の地縁を江戸時代になっても引きずっているように思います。

多利助が名主としての仕事ぶりは、安永五(1776)年、他村の庄屋と共に高梁川上流の鉄山抗掘による川水の汚濁に関する調査と抗議を行なったという記録があります(新見市史二六四頁)。次郎四郎英明は此の五年後の天明元年に五十九歳で死去していますので、英明晩年から貞義が庄屋職を引き継いだようです。
多利助は安永五年九月五日に湛井の問屋九兵衛宅に上林村大庄屋岡重内、三輪村名主渡邊和兵衛、西尾村庄屋内田丹蔵、船尾村肝煎浅野久兵衛、浜村年寄海原重右衛門と共に集合し、翌六日に成羽迄行き、同夜はかど屋小三郎宅に宿泊。七日は雨で逗留し、八日早朝に成羽を出発し宇治を経て吹屋に着き、正本屋伊兵衛方に宿をとり、早速坂本村庄屋兵右衛門を訪れて掛け合っています。十一日夕方東城へ着いて、たんとく屋六右衛門方に宿をとり、翌朝東城村庄屋六郎兵衛を訪ね、其の案内で大庄屋六郎左衛門に応対しました。翌十三日は付近の鉄山を見て廻り、十四日早朝新見へ向かい松山屋弥兵衛方に宿を取りました。十五日は新見の秋祭りで案内人も頼めぬ為、一日逗留して祭りを見物し、翌十六日に丹蔵、久兵衛と共に川奥へ出かけました。同日、美村庄屋伊助より「三月彼岸から九月九日迄は鉄汁を川へ流さない」という誓約書を取り付けています。更に奥へ進んで、同様の誓約書を井原村庄屋是吉、花見村庄屋善五郎、成地村庄屋貞吉、千屋村釜村庄屋林右衛門からも取って、十七日夕方新見に帰り、重内、和兵衛、重右衛門等と合流しました。翌十八日午前七時頃に高瀬舟一そうを借り切って新見を出発、午後四時頃に松山に着き、金川屋与右衛門方に一泊したうえ、十九日午前五時頃松山を出る舟に乗り、正午頃に無事湛井に着いています。以上、二週間にわたる旅でした(湛井十二箇郷用水史)。

清水家所蔵の過去帳のうち、十五日以前が切れて紛失したものがあります。
「廿日 華玉妙珍信女 貞享三年丙寅十二月 神原長十郎妻」
の端に、
「淨土宗松山壽覺院ニ御墓アリ」
との加筆があります。おそらく多利助が上記の旅中にお参りしたのではないかと思います。

茂利治貞本が五十七才の時に記したと思われる過去帳があります。

文政九年改
(省略)
寛政十一己未六月十日
一 訶變妙幢大姉 同二十八年
         福田古新田開主
         西坂屋石原茂一兵衛ニ嫁ス
同 十一己未八月廿三日
一 観住院智貞大姉 同二十八年
         天城中島氏ニ嫁ス
文化元甲子九月五日
一 榮室妙艶信女 同二十三年
         岡谷友野氏ニ嫁ス
寛政九丁巳七月十七日
一 法受院宗継信士 同三十年
         回縁瀬戸
文化二乙丑六月十三日
一 樹香妙宗信女 同二十二年
         直縁、井手、井手氏
文政三庚辰六月五日
一 宝蓮浄華   同七年
         岡山富田氏ニ嫁ス
同 五壬午五月十二日
一 観室妙静   同五年
         大坂藤井氏
同 九丙戌三月十日
一 止真院
         尾上直縁則武氏
同年   六月八日
一 普明貞覚大姉 玉嶋太田氏、直縁

いずれも清水家の墓地に眠っている人ではありません。

妙幢大姉は多利助の妹「さき」ではないかと考えています。倉敷市古新田の石原家墓地にお墓が建っています。

「寶蓮浄華」の墓碑は、岡山市東山斎場東の丘陵で偶然見つけました。岡山大雲寺町の名主ですが、明治になって稲富と改姓しています。

妙静は茂利治妹清の娘で、大坂間野家の過去帳に記録があります。
「十二日 観室妙浄信女 文政五年五月 俗名幾女 貞英姉」

直縁というのは血縁、回嫁というのは血縁ではないが親族という意味でしょうか。法受院宗継は別の過去帳にも記載があり、
「作州瀬戸伯父金田弥七郎五十四」
とあります。茂利治の義伯父になるのかも知れません。

妙艶信女は清水家の系図上の位置はよく判りませんが、茂利治の姉妹とするのが年代からみて妥当だと考えています。岡谷村の岡の庄屋友野勇右衛門国清後々妻とありますから、当時の一般として、友野に嫁ぐ前、他の二家に嫁いでいたはずです。当時、男性が再々婚ならば女性も再々婚というように婚姻回数を合わせる傾向があったようです。
清水家所蔵の書類に、
「   大阪定安町旧半鐘ノ下 藤□
 俗名藤井定次郎死去年月不□
 間野茂利治甥ナリ是モ當家出
 テ大阪ニ行商法家タリ」
と記されたものがあります。
これは茂利治妹「於清」葬列において、笘屋瓶八に並んでいる藤屋定次郎と考えられます。瓶八の身分喪服と違うカリモフク(仮喪服)を着用しているので「於清」の子ではなく、同姓の別の家ではないかと考えられます。
「當家出テ大阪ニ行」というのは、備中生坂の間野茂利治の家に同居していたが、その後大坂に出たという意味です。
友野国清後々妻として亡くなった人が、不縁となった婚家でもうけた男子を茂利治が引き取って育てたのが定次郎ではないかと考えています。

富田家と末廣家の縁を検討したところ、浄華は茂利治の叔母くらいになると思われます。

茂利治の妻澤は備中浅口郡阿賀崎新田村(倉敷市玉島)の呉服商岡本屋太田宗七郎忠孚の長女です。太田家の墓地は玉島の円通寺にありますが、ここには澤の記念碑が実家の手で建てられています。

文太夫は則武與四郎勝英の次女婦喜を妻に迎えますが、婦喜は長女久良を産んだ後に早世します。久良は浅口郡乙島村守屋家に嫁ぎますが、事情があって離縁復籍したようで、実家の墓地に眠っています。ついで、三田村の守屋周左衛門隆常の次女元を妻に迎え、長男利太郎が誕生しました。不幸にして元も若くして亡くなり、文太夫は三妻多嘉を迎えます。

利太郎は間野姓を廃止して清水に改姓していますが、明治三年の宗門帳には「貞基」という印を押しています。喜與の父源太兵衛以後、清水家の当主は代々諱に「貞」の文字を使っていることが確認できています。生坂村へ定住した初代源左衛門の諱は貞家、治郎兵衛、文左衛門の諱が不明ですが、やはり貞〜と云ったものだろうと思います。こういう拘った文字を通字と云います。清水家では、分家するときには親の諱のもう一つの文字を通字として貰って諱を名乗った様です。清水家の一番古い戸籍の当主は石太ですが、ここには「貞印」という印鑑が押印されています。こんなことも先祖を探るだいじな手掛かりになります。江戸末期から明治維新頃に改姓した家はけっこうあるようです。

清水家の一番古い戸籍にも前戸主清水貞基(ていき)とありますが、この前の戸籍は壬申戸籍といって明治五年に作られたものです。士、農などの身分が併記されているので、差別の種を撒くという理由で一般公開されていません。

利太郎の妻濱は長男石太と夫利太郎の相次ぐ死去にもかかわらず、実家の援助をうけながら気丈に家事を執りました。

下記は明治三年の宗門帳に記録された清水家の家族構成です(岡山大学池田家文庫)。
家族の構成員(牛を含める)の上にはその家の戸主の印(この場合は「貞基」)、合五人の箇所に名主「貞基」の印と旦那寺東雲院の寺印が押されています。

 里正
 名主
一 利太郎    歳三十八
  妻      同三十四
 子石太     同十三
 娘まつの    同八
 姉くら     同四十七
合 五人内 男弐人
      女三人
        牛壱疋

石太は菅生村副戸長として村の世話をしていましたが、村で伝染病が流行した時に、病人を避病舎に搬送中に罹病して三十七歳で亡くなりました。菅生(すごう)村は近隣の五ヶ村を統合した行政区域です。

父石太、祖父利太郎と相次いで喪い、稼太郎は梶谷家の勧めで進学することになりました。ずいぶん遅れて学業を始めています。
同志社中学、高梁中学(明治三十四年、第三回卒業)、第六高等学校(明治三十七年七月、第二回卒業)を経て、京都帝国大学法学部獨法学科を卒業(明治四十一年七月)しています。
高梁高校の卒業名簿、二十八名の卒業生中に行方不明者として稼太郎の名前があります。官立の六高進学のために本籍地の行政区域の公立中学へ編入したそうです。
六高は寮生活で、六稜寮史(大正十四年発行)によると、明治三十四年度北寮第一室九名の中にあります。
弁護士となり、大津など国内数ヶ所の裁判所勤務ののち、大正二年に朝鮮慶尚北道大邱(たいきゅう)府にて法律事務所を開業しました。
弁護士というと良い暮らしぶりを想像させますが、左派思想を持ち、ほとんど貧しい朝鮮の人々の弁護を請け負い、一家の生活は良くありませんでした。

晋一郎は大邱医専を出て、岡山日赤病院、愛媛県池田町立病院で小児科医師として勤務、その後、召集されて衛生部見習士官として転戦、南方ハルマヘラ島で戦歿しました。

四男  ――+――慶一
池田氏  |  室
      |
      +――女子

岡山県内には他に、総社市井尻野、西阿曽、同溝口、岡山市新庄、倉敷市矢部、高梁市阿部などに間野氏が、また、岡山市吉備津、同箕島、山陽町津崎、高梁市玉川町増原に真野氏があることを把握しています。


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