守屋家・槇山以外の諸家
窪屋郡三田村



三田集落では、昔は観音堂には、だれもかれも墓地を造ることは出来なかったとも云われます。大西屋も斧次郎家もM家も共に観音堂に槇山守屋家墓地に隣接するように位置しています。大西屋と斧次郎家の間に大庄屋と同じ九曜紋の平松姓の墓地があります。T氏の先祖はこの平松家から分家して曽兵衛のあとを祀るように立てられています。
更に、栄太郎家、田島守屋家、守屋曽平家、それにH氏管理墓地、いずれも寺屋敷にあります。三田集落中の墓地には、江戸時代に院号が付く墓碑がほとんどありません。槇山守屋も上記の通り当主が居士、その配偶者が清信女です。そういう情況の中で、寺屋敷の墓地入り口にある大きな碑に刻まれた戒名は以前から不思議に思っていました。その碑文を拾ってみます。



金右衛門妻、享保18年、○○妙月信女
享保14年、○○院意水居士 同妻元文5年、○○院恵林大姉
寛延4年、○○院○○法元居士 同妻宝暦12年、○○院○○照雲禅尼
文政1年、○○院○○浄林居士 同妻寛政8年、○○院○○不生大姉
天明6年、○○院○○妙閑大姉

この家も田島・槇山守屋の一統のようです。金右衛門という名は「先祖は守屋大臣末・・・」の系図で、多兵衛の系列に出てきます。

江戸時代の院号は現代のように札束を積み上げただけでは貰えませんでした。院号は、一般に、ある一定の地位以上の侍に限られたようです。士族でも下級のものは貰えませんでした。赤穂義士も家老の大石内蔵助以外は皆「信士」です。彼らは多くても数十石の侍でした。農村や城下町の大年寄、大庄屋格の家でも、身分は○人扶持とか、せいぜい10石止まりですから、院号を貰う家はほとんどありません。但し、これも宗派によって差があり、日蓮宗では院号が貰いやすかったようです。

観音堂には、前記の他にいくつかの守屋姓の家が墓地を持っています。守屋甲子夫家もその1つで、同氏著「ふるさと三田の今昔」の末尾に略系図を付けられています。表題に守屋家分家系図とあります。墓碑からの情報を併せると、

守屋馬古連公・・・守屋与九郎――与左衛門――蔵右衛門――三郎右衛門――又左衛門――助七――文五郎――門次郎――+
                                                       |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――三郎右衛門征吉――文五郎――三郎右衛門征庇――+――十万蔵 ――+――修太郎――甲子夫
                          |        |
                          +――建蔵    +――女
                             石川家嗣     橋本歳太郎妻

都窪郡誌102頁、三田村五人組頭の一覧表に天保に文五郎とあります。明治三年の宗門帳でみると、

一、十万蔵 印  歳二十一 五人組頭 十一月廿六日苗字御免被仰付候
  妹しう 印  同五
  妹ゆう 印  同三
  父○造 印  同五十
  母   印  同三十四
  祖母  印  同六十八
合六人内男弐人女四人 印 印 牛壱疋 印
とあります。

甲子夫家の墓地は大西屋の南に隣接しています。家紋は木瓜の中に一文字。先祖は物部の守屋、備中幸山合戦で敗れた武士が城主の石川氏を伴って落ち延びたと伝えています。村内の石川家と株家で、家紋も同じです。

調べて行くと、観音堂の墓地にはまた興味深い墓地があることを知りました。槇山守屋のすぐ北に接して整理された墓地があり、これは槇山の分家で、墓参に来られた植田氏も一緒に祀られていたとのことです。絶家となったものの、本家に隣接しているので無視されずに祭祀が引き継がれたようです。しかし、植田氏から正巳氏へと祭祀が交代して行くうちに、この墓地も無縁墓地扱いとなり、ついには、観音堂にもともと墓地を所有する家によって侵犯を受けることになったそうです。その家は無縁墓地だけを侵犯したのではなく、更に北隣の墓にまで一部入り込んだので、その家との間で喧嘩になりました。こういう共同墓地は各々の家の地面に境界線など元々あってないようなもので、取った取られたという争いがけっこうあります。



また、あれこれ聞いて廻っていると、かつての三田村に東、中、西守屋という3つの有力守屋家があり、中=槇山、西=甲子夫家で、東守屋はリュウミンという後に岡山に出た医者の家だという情報を得ました。
江戸時代でも、医師となり名声を得て御典医となることで、農村から院号を貰えるような家に出世する道があったのです。寺屋敷の墓地入り口にある大きな碑に院号を刻んだ家はこの家ではないのか?、そう考えると何とかしてリュウミン家の消息を知りたいと思いました。明治24年の岡山県地主録を開けてみると、直接国税124圓38銭9厘を納めた守屋立民という名がうまく見つかりました。

本立征利――立民征晃――+==純太郎 ――+――博
嘉永3   大正1   |  某氏    |  平成2
室守安氏  室別府氏  |  昭和31  |
            |  室池田氏  +――学治
            |           平成2
            +――静
            |
            +――第三征勝――誠
            |  昭和37  平成6
            |  室高橋氏
            |
            +――すみ子
            |
            +――昌孝征義
               大正2

博氏は順天堂大医学部教授で、医療辞退連盟を提唱された人です。
学治氏は三菱重工業会長職にありました。
当然、お二人の死亡記事は新聞に載っていて、これを図書館がスクラップブックに貼り付けて索引まで提供してくれていますので、これらを利用してご子孫の住所を捜して手紙を書いてみました。どうやら、私の期待に反して、本立征利が初代、三田の守屋某家から分家して医業を始めたようですが、遠祖が物部の守屋という言い伝えがあるようです。諱の通字と言い伝えから、甲子夫家の分家になるのではないかと思います。
立民は、岡山の蘭医物部雄民、京都小石仲蔵より蘭医学を学んで、安政6年に帰郷しています。その名声により、明治4年岡山藩大病院及医学校勤務となります。つまり、江戸時代で云う御典医に大出世したわけです。後に森下町で開業して、更に天瀬町(現在の岡山市民病院裏)に転居開業しました。純太郎は眼科医で、友石という号を持つ漢詩人としても有名でした。明治三年の宗門帳でみると、

一、立民   印  歳三十四 医者
  妻    印  同二十八
  養子純太郎 印 同七
  娘しずた 印  同五
  養育人りそ 印 同五十一
合五人内男弐人女三人 印 印

立民家のあとは同村内の山地家が買い取って分家を立てています。ややこしいことに、この家がまた守屋姓を名乗っています。T氏方とよく似た経緯を持つ家のようです。田舎に行くと、同じ○○という姓だけれど、あそこは違うのです、ということを良く聞きますが、こういう背景もあるわけです。


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