私の家系図調べ その一


私は平成元年から家系図調べを始めました。

祖母が亡くなってしばらく経ち、お墓参りから遠のいた生活でしたが、この年の春の彼岸に久々に父の実家(本家)の墓地(下写真)に参りました。長男がもうじき三才、長女がもうじき一才になるころで、幼い頃からお墓参りに引っ張り回されていた妻が、墓参りをしない婚家に違和感を持ったようです。父が四男ですから、うちにはお墓は未だないのだと云うと、それならお祖父さんお祖母さんのお墓へ行こうということになったのでした。

しかし、後から考えてみると、このお墓参りがきっかけで始めた先祖調べで消息が判った石原家が思いも寄らないところで妻の実家と関わっていたのですから不思議なものです。

その時、何を思ったのか、父が墓誌を雑記帳に記しはじめました。
私も幼い頃から家の歴史に興味がないわけではありませんでしたので、横から一緒になって碑文を読みました。この時の帳面はいまもありますが、ずいぶん誤りが多いものです。

なれない人が石に彫られた文字を読むのはたいへんですが、繰り返し眺めるうちに自然に読めるようになります。何度でもお参りに来なさい、そうしたら教えてあげようという先祖のメッセージのような気もします。

本家の仏壇に所狭しと並ぶ位牌を一つ一つ帳面に書き写しました。
家の歴史に興味があっても、そんな事を調べるのは死期が近づいた年寄のやることだと思っていましたので、父の行動に不安を感じました。

本家には小さな箱一杯分ほどの古文書が遺っています。江戸時代の明和の頃(1764-72)から明治まで庄屋をしていたという記録が都窪郡誌()や倉敷市史(永山卯三郎編)に載っています。その割にずいぶん少ないな?と思いましたが、後々多くの家を調べてみると、我が家はまだまともな方であると判りました。

古文書の写真コピーを撮らせてもらい、郷土資料と付き合わせながら、系図を組み立ててることにしました。お墓もいつもお参りする場所の他、近隣に数ヶ所がありますので、それらも少しずつ廻って碑文を拾い集めました。また、祖母が遺していた文箱の中から何通かの手紙をみつけ、株家付き合いをしていた家の子孫ではないかと思う人に手紙を書いてみることにしました。

最初の導入をしたのは父でしたが、この辺りからもう完全に私が系図調べにのめり込んでいました。株家の子孫に手紙を書いたことを父に話すと、どうしてそんなことをしたのかという、迷惑と怒りが混ざったような言葉が出てきて当惑しました。

近隣に四ヶ所ある墓地のうち、二ヶ所は他姓(石原家)の墓地でした。絶家してお祀りする人がいなくなったので我が家でみているとのことでした。本家から借りている古文書の中にも石原家の過去帳らしきものがあり、墓石と照合してみるときれいに一致するので面白くなってきました。

それぞれの墓地の登記簿を父がとってきました。驚いたことに、祖母たちが眠っている墓は隣接した墓と共に一筆で登記され、それまで聞いた事もない間野氏の所有になっていました。所有権移転の書類を順次過去にさかのぼると、同與平という名が出てきました。石原家の墓も同じ所有です。うちのお墓と云ってずっと掃除に行っていたのに・・・?
それと共に、いままで他家の墓地と思っていた近くの墓が、祖父の祖父(貞基 テイキ)と間野與平の共有墓地として登記されていたのです。

この間野與平(与平 ヨヘイ)というのは聞いたことがある名でした。
岡山に「調布」という銘菓があります。地元の茶人にはたいへんよく知られた上品な菓子で、この栞(翁軒)に創製者「間野与平」の名が記されています。この人について父に尋ねたことがありました。「それはうちの分家の人だ」という答えが直ぐに返ってきて驚いたことがありました。

祖母たちが眠っている墓には合わせて十数基の墓碑が並んでいますが、我が家の姓「清水」と彫ってあるのは数代前からで、それ以前のお墓はみな「間野」となっています。
明治になって近隣に間野を名乗る家が増えたので、紛らわしくないように元の「清水」に替えたのだという大人たちの説明でした。

「そういえば隣のお墓も間野だった!」
当時、隣の墓地は鬱蒼と木々に覆われ、昼間でも踏み込むのが気味が悪い状態でした。
「隣にも間野というお墓があるようだけれど、うちとはどういう関係なの?」
祖母に尋ねたことがあります。
「あそこは代官の墓、うちとは関係ない」
ずいぶんそっけない返事でした。

間野というと子どもの頃から呪文のように聞かされていた人の名があります。
「まのごさんべえという人がいて、うちの家が絶えかけた時に世話をしてくれた」
「じゃ、そのごさんべえさんはうちの先祖なの?」
「いや、石原から養子に来た人で・・・」
子どもにはその辺りから先はもう理解できませんでした。
「うちの先祖のような、ちがうような・・・」
子どもの心に小さな雲が浮かんでそれはずっと消えずに残りました。

父と一緒に墓碑文や位牌を書き写しながら、小さな雲をかき消そうと、質問をしてみましたが、なかなか理解の出来る答えが返ってきません。祖母にはもう聞けないし・・・、では自分で納得行くまで調べてみようと思いました。

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:『国立国会図書館デジタルコレクション』、検索欄に『都窪郡誌』と入力、検索結果の『都窪郡誌』をクリック、コマ番号のプルダウン・メニューを70コマに合わせると生坂村名主歴代が閲覧できます。
郡誌に載っている庄屋・名主一覧は、公文書の署名から拾い上げて作成されています。上記の生坂村名主歴代も、例えば、『国立国会図書館デジタルコレクション』の『沢所沿革史』、36コマに、
文政五年十二月の農業用水の使用に関する文書があり、
窪屋郡生坂村名主 茂利次 (清水稼太郎)
という記載があります。括弧内の清水稼太郎は茂利治(茂利次)の子孫ということです。
稼太郎は私の祖父、茂利治は稼太郎の祖父の祖父(高祖父)です。

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