私の家系図調べ その三



「倉敷市史(永山卯三郎編著)第八刷、備中の部村役人一覧」に載っている間野家の歴史に、「先祖は清水姓」「間野五三兵衛」などと書いてあるので、これをきちんと解明すれば、我が家の改姓の経緯やごさんべえとの関係も判るだろうと思いました。

この由緒書の元ネタを提供したという間野尚明の子孫に系図の所在を尋ねる必要があると思いました。尚明の子東明氏に手紙を書くことにしました。この人は、戦後もしばらく、お墓参りに来られるたびに寄られていたそうです。

倉敷市史には、

代々五三兵衛  次郎四郎 源左衛門 源左術門 番右衛門 番七郎 圓右衛門 逸  蔵
        英  明−貞  明−清  明高  明−利 明−嘉  明−文  明   −惟 明  −尚 明
                                     安改四、七十七 明治廿一死
                                     年四十九

という系図と、

         間野源左衛門         源左衛門 次郎四郎
一  二  三  四  五  六  七  八  九    十   十一 十二 十三 十四 十五 十六 十七 十八
貞氏−貞元−貞宗−貞家−家明−頼明−秀明−氏明−義明 ― 英明 ―貞明−清明高明−利明−嘉明−文明−惟明−尚明

という系図が載っています。
私が不思議に思ったのは、上記の系図に與平が載っていないことでした。

お墓を調べてみると、氏明までと高明から以降が眠っているのは、清水貞基と間野與平の共有墓(下写真)だと判りました。
各々の生存年代を合わせてみると、高明は義明と同時代かそれ以前くらいの人になるようでした。つまり、上記の系図は氏明までと高明から以降の部分が不自然につないである、まるで断層のようになっていることが判ったのです。

「五三兵衛方はうちとは関係ないが、東明さん方は清水より分かれた」
とも聞いていたので、やはり義明=五三兵衛の代になにか特別な事情があったに違いないと考えました。

さて、倉敷市史の記述は我が家に関係がありそうな事が書かれているのは最初から直感していましたが、いったいどの様につながるのか?、つまり、間野家と清水家の接点がまったく解りませんでした。

清水家には「寛永十一年八月十八日 慈徳院弃本任風居士 間野源左衛門」という位牌だけが最も古い先祖を知る手がかりでした。

ある日の昼過ぎ、この謎解きをしながらうたた寝をしたことがあります。その時の夢の中で、三人の男性に導かれて四人がけのテーブルに座らされました。三人のうち二人は着物姿ですが、一人は甲冑を身にまとっていました。その人が口を開いて「私が教えてあげよう」と云ったのです。その直後に目を覚ましました。
「ああ夢だった残念!」
その日が暮れる頃、それまで何度も眺めていた倉敷市史の記述を眺めながらハッと気付きました。
「子貞家 元和元年帰農窪屋郡東阿知郷郷土として持高二千八百石なり寛永十一年八月十八日卒 母は京極左近秀綱の娘なり」
なんと、間野源左衛門貞家の位牌は清水家に祀ってあったのです。その位牌は後代に作り直されたものらしく、源左衛門夫婦、治郎兵衛夫婦、それに間野友仙という五人を合祀するもので、三人の男性名が記されています。私の夢枕に立ったのはこの三人らしいのです。源左衛門は主に戦国の世に生きた人ですから甲冑姿だったのでしょう。いま思っても不思議な体験でした。

家系図調べをしていると、宗教にでも入ったのかと尋ねられることもあるそうですが、こんなことがあるからでしょうか。
私自身は宗教とはまったく無縁ですが、あるお寺の住職が、
「いろんな宗教に凝る人が居ますが、ご先祖様を信ずるのがいちばん確かでありがたいです」
と云われました。本当にその通りだと思います。
こんな夢は後にみることはありませんでしたが、血縁をたどり、家系図をハシゴしながら訪ねた先で、ビックリするような出逢いは何度も経験しています。まるで、誰かが仕組んだ物語の中を浮遊させられているかのような感覚に陥ったことさえあります。

上記の五人連記の大きな位牌は、お金や場所の節約のために個々の墓を整理して一枚の墓標にまとめたようなものかと理解していました。しかし後になって、これは治郎兵衛が源左衛門の相続人であることを後世に伝える重要な意味があって、意図的に作られた位牌のようです。

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