私の家系図調べ その四



倉敷市史に掲載された先祖書は、定住した初代源左衛門以前は清水家にもそのまま通用出来そうなことがわかりました。
位牌と断片的に残った過去帳、それに墓碑を付き合わせると、源左衛門から現代まできれにつながり、私の従兄で十三代になりますが、倉敷市史の記述を加えるとそれから更に三代さかのぼることが出来ました。

父は、祖母が古い過去帳をめくりながら「自分の夫(稼太郎)で二十二代になる」と云っていたといいます。
伯父は「稼太郎で二十七代と聞いている」と父に話したことがあるそうです。
祖母がめくっていたという過去帳は終戦の混乱時に紛失しました。
その後、某家の過去帳をお借りして解読する機会に恵まれました。その作業中、父がやって来たので、いまこんなものを読んでいると見せると、
「うちにあった過去帳によく似ている」
といいました。その過去帳は単に先祖の名だけを羅列したものではなくて、一家の年代記のようなものを兼ねていたようです。

私が幼い頃、祖母に先祖を尋ねた事がありました。
「先祖が源氏とか平氏とかいうでしょう、うちは何?」
祖母が笑いながら「清和源氏」と答えたのを覚えています。
祖母は腹這いになって、背の上を幼い孫たちに歩かせていました。子どもの体重がちょうど良いマッサージ代わりになったようです。そんな幼い頃の話ですから、私もよくそんなことを尋ねたものだと感心します。
先祖は近江国(滋賀県)から来たので、屋敷の中庭には近江八景を模した造作がされていました。

郷土資料に掲載された先祖書に
「高祖は清水冠者義高にて遺児義季江州国主佐佐木に仕へ佐々木亡びて浪人し備中へ来清水源太兵衛貞氏と云う者毛利氏に仕う 佐々木家に在りし貞氏は浪人して備中に来り毛利氏の為に尼子氏と戦う。貞氏ノ代
系図写 佐々木北条と対陣の時滋賀合戦之刻沼田十郎国時と戦い敗走の跡を追うて湖水を馬上にて渡る時に年二十七歳」
・・・
「小家現存の宝物は南朝清水義教の 通し短刀、助長 太宰府直後の天紳に号蓮糸で肖像まで織込の七八百年の弘法大師 木曾義仲徳音寺の木像筆」

先祖が近江から来たという清水家の伝説に一致します。高祖が木曽義仲の遺児清水冠者義高ならば、祖父稼太郎で二十二代なり二十七代はほぼ年数も合いそうです。
先祖書の作者尚明氏の子息東明氏に宛てた手紙の返事がきました。
「亡父尚明は生前木曽義仲が間野家の祖と申しまして、尾道市の向島に木曽姓のものが多数おりまして時々出かけておりました」

当時、私は因島で勤務していましたので、向島はすぐ隣の島です。この時にもなにか不思議な巡り合わせを感じました。

向島町には、木曽義仲、義重、覚明の三神を祀る覚明神社というものがあり(上写真)、町の史跡に指定されています。住宅地に中にひっそりと建つ小さな祠です。太夫坊覚明は義仲の祐筆で、義仲軍の敗走後、遺児義重と家臣三十余人を連れて向島(歌島)に逃れ、一族は力を合わせてこの地を開墾しました。その後、義重と覚明は一族の定住を見届けて信州に帰ったと云います。この時の家臣達を祀る三十六苗荒神というものもあります。

為義――+――義朝――+――義平
    |      |
    |      +――頼朝
    |      |
    |      +――範頼
    |      |
    |      +――義経
    |
    +――義賢   ――義仲――+――義高
    |             |
    |             +――義基
    |             |
    |             +――義重
    |             |
    |             +――義宗
    |
    +――行家

義仲の子には義高、義基、義重、義宗がいたようです(上の略系図)。向島町史には 、義重の子は義任、義豊、重種とあり、長男は信州に帰ったが、次男以下はこの島に残って子孫が続いたと書かれています。
義高は清水の冠者と名乗り、頼朝のもとに人質として遣られ、義仲戦死の後に殺されたようです。ところが、義基を清水冠者と表記する系図もあり、義重が洩れているもの、義重を次男とするもの、四男とするもの、様々です。
その後、この向島出身の木曽家が作成した先祖記を見る機会がありました。それには、次男義基を清水冠者、三男義重が向島落人と書いてありました。
また、義仲の妹とも娘とも云われる宮菊、鎌倉幕府二代将軍頼家妻竹御所の母が義仲の娘と云われるなど、義仲の血縁者はほとんど不明です。

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