私の家系図調べ その七



清水家と両間野家の関係は以上のようにして解明出来、それぞれのご子孫にも一応の理解が得られたと思っています。
どの家が本家であろうと、本当はそんなことはどうでもよいのですが、「間野から本姓清水に戻す」という我が家の改姓の根拠を探るにはたいへん重要な一歩であると思いました。

しかし、郷土資料に掲載された先祖書、即ち間野尚明氏の由緒書は、五三兵衛以降の流れが混乱していますので、源左衛門貞家以前の流れ、即ち、清水という姓が、木曽義仲の遺児清水冠者に由来するということも甚だ心許なく思われました。

そこで、また別のところから頂上(=改姓の根拠)を探ることにしました。

生坂清水家には一枚の系図があります。ちょうど新聞紙一頁大くらいの大きさで結構な厚みのある美濃紙に書かれています(上写真)。

清水
内膳――+――庄九郎
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    +――入兵衛――+――内膳
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            +――彦右衛門――+――新兵衛
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                     +――金右衛門
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                     +――女 長崎内蔵助妻
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                     +――彦右衛門
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                     +――女 高野瀬作兵衛妻
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                     +――女 丸川源太夫妻
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                     +――五右衛門
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                     +――伴五兵衛
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                     +――儀右衛門
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                     +――女 弓屋庄兵衛妻
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                     +――助左衛門
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                     +――彦之丞

冒頭の清水内膳は山崎源太左衛門尉旗下江州清水城主、庄九郎の横には「父子両人江州観音寺崩で討死」、入兵衛は「江州では幼少のため出陣せず、備中国成羽に於いて元和五年八十才で死去」、後の内膳は成羽で病死、その兄弟彦右衛門は慶安元年讃州丸亀で六十一才にて死去、となっています。

この系図が我が家の系図であると、祖母も伯父も説明していました。しかし、倉敷市史掲載の先祖書には、この系図に載っている人が一人も出てきません。
いったいどこの家の系図なのだろう?、来る日も来る日も考えた時期がありました。

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