私の家系図調べ その六


間野五三兵衛家も清水家も、また間野尚明氏の家もいずれも自分の家が本家になると考えていたわけですが、慈徳院弃本任風居士(寛永十一年八月十八日)の源左衛門を先祖とする点で一致しました。

間野五三兵衛家と清水家のいずれが本家になるのかという解釈は、清水家の中興期の歴史解釈によるようです。清水家所蔵の古文書に茂利治貞本が遺した先祖記があります(下写真)。

「古屋敷が所持していた地利米は百二十石餘、家財残らず五三兵衛義明が預ったもので、当家を建てた。所有田畑は古屋敷から五三兵衛義明が預ったものを返却された。それより五三兵衛の新宅、本家が五三兵衛方と云われるが、我が家は一般に云う新宅とは云えない、つまり家督は御先祖から譲り請けていて、本家、別家と区別するのは間違いである。むしろ古屋敷の血筋を引く本家筋とも云えるのである」

すなわち、財産分けをしてもらった分けでもないし、本家の血筋をそのまま引いているわけだから、本家と云うのが正しいと主張しています。

では、尚明氏の家はどうかというと、
與平が書き遺した縁合覚に次のように記してあります。
「六、七代以前の分家で血縁はない、原津より二代養子が来る 古庄屋高尾源三 金次郎 保太郎 益太の母は成羽渡邊氏より来る」

ずっと後になってからですが、或方の紹介で岡山大学附属図書館所蔵池田家文庫に宝永五(1708)年正月の百姓帳があることを知りました。庄屋源左衛門の家族構成が次のように記されています。

壱軒

一家内四人内男弐人
      女弐人      源左衛門
    内
 壱人    源左衛門    歳五十九
 壱人    女房      歳四十六
    友右衛門後家
 壱人    嫁       歳二十三
 壱人    弟伴右衛門   歳三十五
  牛壱疋

戸主欄の源左衛門は、五三兵衛義明の養父九郎右衛門氏明です。女房は後妻で、先妻川上氏との間に友右衛門という子がいます。友右衛門は妻を迎えて間もなく、宝永四年八月に亡くなります。つまり、夫の死後四ヶ月余経っているのですが、そのまま婚家に残っているわけです。こういう家庭に五三兵衛が養子に入ったことは間違いありません。五三兵衛は九郎右衛門のあとを嗣いで源左衛門と名乗って庄屋職を引き継ぎますが、九郎右衛門の弟伴右衛門は分家しました。これが尚明氏の先祖番右衛門高明です。

分家したにもかかわらず、番右衛門は先祖代々の墓地、つまり九郎右衛門までが眠っている墓地(生坂字屋敷ノ内)を受け継いで、五三兵衛の方が新たな墓地を造成しています。九郎右衛門までが眠っている墓地は、間野與平、清水貞基他三名の共有になっている墓地で、五三兵衛が新たに造った墓地にいちばん最初に埋葬されたのが清水家の喜與です。喜與は古屋敷(鼻生坂間野家=本家)に残った孤児で、五三兵衛に養われました。

五三兵衛は間野家の血を引く人でありませんから、與平が書き遺した縁合覚に「血縁はない」となるわけで、「六、七代以前の分家」というのも九郎右衛門の代ですから一致します。
一方、清水家は石原家を介して五三兵衛家と血脈が通じていることを與平は知っていたので、「血縁はない」とは記していないわけです。
祖母は、尚明の家は五三兵衛の家から分かれたのではなく、清水の方から分かれたというように説明していたようですから、やはり五三兵衛の代に起きた血脈の断絶について親族間でいろいろ取り沙汰されたのだろうと思います。

墓地にはふつう固定資産税がかけられません。
墓地には公共的施設としての性格があるからというのが一つの理由だそうですが、田舎の共同墓地の所有権を調べているといろいろ面白いことが判ります。
明治の登記が行われた頃に祭祀に関わっていた家の戸主が所有者として名を連ねたものが多いのですが、所有権が二重に登記されている墓もあり、祭祀者をきちんと検証していないのではないかと疑われる例もあります。
清水家と間野五三兵衛家が隣り合う墓地の場合は、お互いの家がよく解っているので與平一人の名で登記されたのかも知れませんが、もともとの墓地造成を與平の先祖(五三兵衛義明)が単独で行ったという與平の認識によるのかも知れません。
五三兵衛が墓地造成を行った時期は、清水家の先祖喜與がその財産を含めて五三兵衛の管理下にありましたので、與平の認識に全く問題がなかったかどうか不明です。

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