二宮家
津高郡九谷村(


野々口大村家の系図に、
女九谷村二宮理左衛門妻
女二宮利平妻
という人が記されているので訪ねてみました。



「金川町史」336頁に「26 おどし鉄砲願出書」「27 おどし鉄砲許可につき大庄屋請約書」という記事があります。
前者に名主の署名捺印があってその中に、
中泉上村両村名主上村 利兵衛(黒印)
九谷名主利右衛門(黒印)
後者に、
大庄屋金川村 孫左衛門 享保19年寅7月
と年号が明記されています。
これら山間部の農村は猪や鹿が田畑を荒らして困るので、威して追い払う為に鉄砲を所持させて欲しいという願いを名主を通じ、大庄屋の取り次ぎによって藩(備前藩金川陣屋)に提出したところ、あれこれ条件付きでなんとか許可が出たようです。兵農分離政策(秀吉の刀狩りに始まる)によって、農民の武器の所持は厳しく制限されていました。なお、孫左衛門は孫右衛門の誤植で、古代屋江田氏です。

九谷の墓地を訪ねてみると、
利右衛門享保9年歿○○院當特
及び、
その妻享保11年歿○○院妙徳霊尼
という墓碑が見つかりました。地名が一致すること、古文書で名主を勤めたことも判ることから、理左衛門=利右衛門で良いと思います。享保11年という歿年も他の大村家の当主や関係親族の生存年代と照合しても矛盾はないようです。
他に、寛文の頃からの古い墓碑や半七郎を襲名したらしい墓碑が確認できましたが、利平(利兵衛)と彫られた墓碑はなく、系図復元は難しそうです。現在の中泉上村付近にも二宮姓は多く、特に上村については、田地子丸山行森家の2代妻が宇甘上村二宮一之治末女となっていて、これとの関係がありそうです。新しい累代墓には「九曜」の家紋が彫られています。

また、二宮家墓地中に、「南無妙法蓮華経 奉唱満首題千五百部」という石塔があり、「九谷村首経講中一話」「為現世安穏後生善処」「元禄十四年十一月十三日」とありました。この「世安」というのは日典上人の父で、この父子は野々口大村家から出た人です。

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