佐藤家
都宇郡惣爪村



平成十四年五月十九日、岡山市立図書館で、「真野家の遠祖(紫安彌寿子と生家真野家):紫安新九郎著」という本を開きました。真野(マノ)というのはとても気になる家ですので、それまで何度も手にしていた本でした。しかし、その日は、下写真にあるような五輪塔を撮影した挿入写真に目がとまり、解説にどこかでみたような戒名が記されているので「おやっ?!」と思いました。それは岡山市三手の渡邉家で拝見した集合位牌に記された戒名と同じでした。渡邉家位牌は写真撮影させていただき、パソコンに入力整理していましたので、少々鈍くなってきた頭の回路もすぐにつながったようです(^_^ ;
資料というのは暇があれば何度も眺めて頭に入れておくものだと思います。



「真野家の遠祖」によれば、佐藤家は明治になって断絶しましたが、梅坪守約が真野家の養子となっていたので、真野中山が毎月十五日には墓参を続けたそうです。「小西昌平翁宅を辞して先日墓参遊ばされ候佐藤家の墓地に参り候、佐藤家、岡西氏宅の所在なども実地見聞仕り候」と記されています。墓地の写真とその紹介文、惣爪近辺の地図を用意して調査に乗り出しました。
まず、八幡宮を目印に付近を歩いてみました。畑仕事をしているオジサンに、「惣爪というのはこのあたりですか?佐藤という家が昔あったと本に書いてあるのですが、こんなお墓をみられたことがありませんか?」と尋ねてみました。「いや、ここは加茂じゃ、あんたが立っとる道が旧山陽道で、道から向こうが惣爪じゃ。ありゃ、どっかで見たような墓じゃがなあ? 八幡様の周りに古い墓があるから行ってみなさい」とアドバイスをいただきました。しかし、八幡宮の周りの墓地を歩いてみてもそれらしい墓がまったく見つかりませんでした。一回の挑戦で見事に獲物を見つけることもありますが、それは希で、たいていは数回同じ場所に通うことになります。この時も日を改めて再度捜しに回りました。
住宅地図には墓地の場所も載っているので便利ですが、すべて記載されているとは限りません。航空写真をもとに、最後は調査員が脚で歩いて集めた情報を記しているそうですから、調査員の熱意の差でいくらか情報の量にばらつきがあります。
惣爪の場合も、自分で歩いて見つけた墓地が住宅地図に掲載されていないものがあることに気づきましたので、惣爪中を隈無く、場合によっては近郷も含めて探す必要があると思いました。そこで、吉備津神社を起点に自転車で廻ることにしました。
旧山陽道の板倉宿がだいたいどの辺りかは知っていましたが、実際に歩いてみるとよく解ります。吉備津の神様に調査の成功をお祈りし、妹尾太郎兼康の墓所に手を合わせて惣爪に入りました。よくみると、住宅地図に載っていない墓がいくつもあります。驚くことにここでは住宅と墓地が自然に共存しています。そのうちにとうとう「真野家の遠祖」に挿入されている写真の墓地を見つけました。草が生い茂っていないか、石塔が倒壊していないかと心配していましたが、比較的きれいに整っています。「絶家となっているのだが・・・?」と思いながら、横に畑をしているオバサンに尋ねてみました。「そこの真ん中だけは近所の○○家の墓地なので、周囲の無縁墓の掃除も一緒にされているようですよ」
とにかく碑文をのこらず確かめようと頑張っていると、横を通りがかったオジサンが声をかけてこられました。「ここは庄屋の墓じゃった、佐藤市左衛門庄屋ゆうて、そこの公会堂の辺りに、何でも化粧部屋まであったそうじゃから、どえれえ大きな屋敷があったらしいですわ」

市左衛門秀興――忠右衛門久全――+――市左衛門雅直――忠右衛門直方――市左衛門度宗――忠右衛門敬宗――+
享保6     延享2     |  天明1     寛政4     文政3     安政1     |
室岸本氏    室       |  室國府氏    室鳥羽氏    室真野氏    室       |
                |                                  |
                +――真染和尚                            |
                |  寛政9                             |
                |                                  |
                +――女                               |
                |  渡邉是氏妻                           |
                |                                  |
                +――女                               |
                   真野家へ                            |
                                                   |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――守約
|  真野家嗣

+==善三郎茂宗――+――慎右衛門 ――+――亀太郎
   江木氏    |         |  慶應3
   明治17   |  室      |
   室敬宗長女  |         +――源造
          +――小富        明治44
             和気翁輔妻

「真野家の遠祖」に紹介された墓碑文には、ほかに
「真染大和尚俗称佐藤氏連島宝島寺」
がありますが、
倉敷市史に宝島寺寂厳和尚の解説があり、
「師法諱真染字文敞備中国都宇郡惣爪人俗称佐藤年甫十二祝髪従宮内普賢院真*大和尚・・・(*=王扁に、寮の上ウ冠を除いた字)」
即ち、真染和尚は寂厳の孫弟子のようです。寛政九年十一月廿一日歿年七十五とあります。
「真染和尚塔 俗姓佐藤氏本州連島住寶嶋寺寛政九年十一月廿一日(墓誌)」

渡邉家の歴代を眺めると、善右衛門是氏妻が「天明元年歿 佐藤氏」とのみ墓碑に彫られています。集合位牌に記されているのは渡邉家の先祖と何らかの血縁のある人たちばかりのようですが、戒名だけのものを除いて、年号が一番古いものが文政元年となっていて、江戸初期から判っている渡邉家の歴史に比べてとても新しい仏様ばかりであるのに気付きます。同家は、是氏の子源蔵是富が三十六才という若年で死去し、孫の恭平久富が叔父是親の世話で家を再興したという歴史があります。おそらく、そういう経緯の中で、仮にあったとすればその古い集合位牌が散逸し、当時も縁戚関係を保っていた家の血縁者を記した集合位牌が再生されたのではないかと思われます。ですから、本来なら是氏妻の実父母からの戒名が遺されるべきところ、恭平久富の二いとこくらいになるような佐藤家の人が書き遺されたのかも知れません。
是氏の母親が矢部村に住んでいたという記録がありますので、善右衛門是氏妻の実家が矢部の隣惣爪村から来たことも肯けます。また、市左衛門度宗夫婦を位牌に書き遺した渡邉家の人は、当然、佐藤家と真野家の縁戚関係を知っていたはずです。度宗の孫守約を相続人に決めた真野守正が冨山家の人であることも恐らく渡邉家も承知していたのではないでしょうか。そういう伝承から、後に渡邉家から冨山家に嫁ぐ人が出たとも考えられます。
さて、渡邉是富と佐藤度宗妻の生年が二十三年隔たっています(是富の方が年長)。これはだいたい親子ほどの年齢差ですから、度宗の祖父の姉妹が是氏妻ではないかと思います。
真染和尚と佐藤度宗妻の生年が四十二年隔たっています(真染の方が年長)。これはだいたい祖父と孫ほどの年齢差ですから、真染も度宗の祖父の兄弟ではないかと思います。

「真野家の遠祖」では、当時の真金町長濱崎虎之助氏の書簡を引用して「真野家と佐藤家とは重々縁、竹堂先生の妹佐藤氏に嫁し、其子梅坪先生、真野家に入られたることを承知いたしました」
とありますが、茂宗の娘小富の墓誌に「伯父約並書」とありますし、真野家の世代と対照してみても、「竹堂の甥梅坪」とはならないようです。

敬宗の男子守約は真野家を嗣ぎ、女子栄に浅口郡占見村江木清三郎三男善三郎を婿養子に迎えています。この縁組みは真野守正夫婦の強い希望が反映されたのではないかと思いますが、実は、江木清三郎と真野守正は共に冨山定兵衛秀貞の子で、兄弟になります。
「真野家の遠祖」によれば、佐藤家は明治になって断絶とありますが、一番新しい墓碑は明治四十四年に亡くなった源造とその父慎右衛門の合祀になっていて、慎右衛門は俗名のみで歿年の記録はありません。おそらく、跡継ぎのなくなった慎右衛門が明治の末、或いは大正の頃に亡くなって絶家となったのではないでしょうか。

備中村鑑によれば、
○御料所 御陣屋倉敷
五百七石五斗二升八合一勺 惣爪村 佐藤市左衛門
                 高原大助
となっていて、佐藤家はたしかに庄屋を勤めていたことが判ります。
惣爪八幡宮の玉垣の銘を確認しましたが、佐藤、真野という名は見られませんでした。参道の左手、田圃の中にも墓地があります。高原某という銘があり、中に「中庄屋」と入れられたものがありました。


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