岡西家
賀陽郡庭瀬村



岡西家の先祖はもと備前岡山藩主池田家の客分として扱われ、岡山の紙屋町で医業をしていたそうです。昌哲の代に庭瀬板倉家から典医として招かれ、以後明治に至るまで庭瀬に住んでいました。昌哲妻の実家森家はもと石田三成の家臣だそうです。

徳兵衛昌庵――昌益  ==済昌哲 ――昌順雲林――+――昌栄        ――+――昌卿  ――+――つる
享保3    寛延3   森氏    天保15  |  天保11        |  明治6   |  西山家嫁
室小西氏   室佐伯氏  文化3   室長野氏  |  室大河内氏       |  室佐藤氏  |
             室小橋氏        |              |        +――亀太郎昌謙――+
                         +――某     ――信義  +――繁     |  昭和5    |
                         |  渡辺信満養子         高原家嗣  |  室高草氏   |
                         |                       |  室坂井氏   |
                         +――女 大河内家嫁              |         |
                         |                       +――寛三郎    |
                         +――寿満 岩月清安妻                明治12   |
                         |                                 |
                         +――女 谷家嫁                          |
                         |                                 |
                         +――女 上原家嫁                         |
                         |                                 |
                         +――女 三宅家嫁                         |
                                                           |
+――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+

+――寿
|  仁科保夫妻

+――介爾   ――+――昌則
|  昭和22   |
|  室木野村氏  +――晃
|  室川鍋氏   |
|         +――美恵子
|            奥原家嫁

+――貞
|  内田彌八妻

+――清   ――女
|  赤堀醇妻  桂家嫁

+――順二郎 ――+――美智子
|  平成3   |  富永家嫁
|  室宮川氏  |
|        +――芙美子
|        |  熊木家嫁
|        |
|        +――雅子

+――綱三郎
|  昭和3

+――修
|  明治44

+――維四郎 ――+――協子
|  平成7   |  吉岡家嫁
|  室彦坂氏  |
|        +――哲雄

+――常五郎
   昭和11

昌順は絵画・書道にも巧みで雲林という号で有名です。藩医の首班で、治痘術を得意としたそうです。寛政5年頃から3年間、京都に遊学し、池田瑞仙について学んでいます。昌順は池田家家伝の「痘瘡図譜」の書写を許されています。この図譜の写しは代々岡西家に伝えられ、順二郎によって岡山大学医学部附属図書館に寄贈されています。

板倉家分限帳によると、雲林の子昌栄(昌齋)は15人扶持となっています。昌卿は幼くして父母を失い、藩家老を勤めていた叔父渡辺信義の後見で祖母に育てられました。万延元年、備後国藤江村(福山市藤江)にいた儒者森田節齋に師事しています。縁あってか、節齋の弟月瀬も庭瀬藩典医として庭瀬に招かれています。

亀太郎は明治17年に岡山県医学校(後に第3高等学校医学部から岡山医科大学を経て岡山大学医学部)を卒業、医学校の実習病院であった県病院に勤務し、同35年に岡山市東中山下に内科を開業しておおいにはやりました。また、書も得意とし、鯉山(りざん)という号を使っていました。

明治38年頃、岡山県知事桧垣直右の娘が急な腹痛を訴え、鯉山に往診に来て貰ったときのことです。鯉山が知事公舎で娘の診察にあたっていると、少し開いた襖の隙間から隣室で直右が仰向けに寝そべって新聞を読んでいる姿が目に入りました。これを見た鯉山は怒ってそのまま帰ってしまい、直右が謝って再度の診察をお願いしてもガンとして応じなかったそうです。当時の知事というと大名格ですから、鯉山の態度も呆れたものです。またある時にやくざ者が診察に来て、「おい、大将はおるか!」と門前で言うので、奥から出てきて、「岡山では、17師団長の中将が一番偉い、岡山には大将はおらん!」といって門前払いしたそうです。しかし、たいへん診たてが良かったので岡西医院の前は門前市をなす盛況ぶりだったといいます。晩年には息子を頼って上京し、近衛家の侍医を勤めたそうです。

鯉山は同じもと庭瀬藩士坂井通之の長女起代子を妻とし、1男2女をもうけています。長男介爾は東京に出て医院を開業、長女寿(ひさ)は仁科家へ、次女貞は倉敷市本町の新禄尾原屋内田家に嫁いでいます。



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