所司家
都宇郡妹尾村





佐藤S氏が、「うちの分家で紋佐藤の系統です、明治の頃に所司と改姓しました」と云わるので、佐藤三郎兵衛家と紋佐藤家の関係を知る手がかりがないかと思ってこお墓を訪ねました。

かなり広い墓地なので以前にも覗いたことがありました。室町時代の年号が彫られているものもありますが、石はそんなに古くなく後世の建立のようですので、ザッと眺めて放置していました。しかし、正徳年代に死去した城佐藤の先祖が六代三郎兵衛などと刻まれているので、もしかしたら共通項が見つかるかもしれないと思って碑文をさらえてみました。

後世に建てられた一つの供養塔に彫られているのは、「天文二十年信良居士」と「弘治元年春氏大姉」の夫婦、「文禄四年所司居士」と「慶長二年妙一大姉」の夫婦、「寛永十四年法元居士」と「寛永十三年妙元大姉」の夫婦、つまり三代分の夫婦が合わせて祀られているようです。もう一つの供養塔には、「寛文五年秋月信士」と「万治元年妙月信女」の夫婦、「宝永二年泰山信士」と「正徳元年妙山信女」の夫婦、「元文四年椿林信士」と「寛保二年妙林信女」の夫婦、これも三代分の夫婦が合わせて祀られているようで、二つの供養塔で連続した六代分の直系先祖夫婦のようです。
それから、「安永四年妙存信士」となって、以下に続くようです。

茂右衛門信俊――+――左兵衛信之――信潔
高谷氏     |  安政6    
天保14    |  室      室藤浪氏
室家女     |
室浦田氏    +――久造信慶
室          明治7
           室岡本氏

信俊は婿養子で、窪屋郡山手宿村高谷角左衛門四男となっています。

城佐藤六代三郎兵衛にほぼ一致するのは、合祀墓の「泰山信士 宝永二年」くらいですから、所司家はこの前に四代、城佐藤六代三郎兵衛以前に兄弟で相続する準養子がないとすれば、所司家よりも城佐藤が古いことになります。また、合祀墓には三郎兵衛家の戒名に頻発する「宗」の文字が一つも見られません。
紋佐藤で一番古い墓は「方之 宝永二年」ですが、所司家の墓地には方之の戒名を含めて重複するものが一つも見られません。所司が紋佐藤の分家とすれば、合祀墓に一致する戒名を刻んでいるはずなのですが、実際はそうなっていないので紋佐藤とはまた別流かも知れません。

系図につないだ三代分だけをみても、代々「信」の通字を使っていたらしいことが強く疑われます。これは三郎兵衛家にも紋佐藤家にも共通するものですから、室町時代以前から妹尾には何流かの佐藤家があった、つまり妹尾佐藤家の歴史はそれほど古く遡る事が出来るということではないでしょうか。

所司というのは官職名で、佐藤庄司に因むのかも知れません。江戸幕府に京都所司代というのは歴史教科書で習いました。佐藤S氏は「中務(なかつかさ)も佐藤の一族です」と云われますが、中務も官職名になります。もとは一つの家でありながら、分家をしてそれぞれの家の独自性を強調するための改姓だったのかも知れません。


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