佐藤家・紋佐藤
都宇郡妹尾村





佐藤三郎兵衛家の墓を探して盛隆寺周辺の墓を回ったとき、大佐藤家と共に最初に目に留めたのがこの家のお墓でした。大佐藤家よりやや高いところに位置していて、周辺には佐藤姓の墓地が多く集まっています。後述の田中屋の墓地はやや東になりますが、盛隆寺本堂上の共同墓地の中ほどまでに佐藤姓の墓地が分布しているようです。

笠の付いた、宝永、享保という古い年代からの墓碑が整然と並んでいますが、三郎兵衛という俗名を彫られたものはありません。新しい累代墓には「丸に剣酢漿草」の紋が入っていますが、江戸末期から昭和へと空白の時代があるのも納得が行きにくく、碑文を丁寧に書き写したのはずっと後になってからでした。

方之 ――九兵衛信義――武右衛門――東兵衛信吉――幾右衛門信辰――+――幾右衛門信武――九郎兵衛惟孝
宝永2  享保13   寛保3   安永6    寛政9     |  天保4     万延1
                                 |          室森川氏
                                 +――官右衛門正信
                                    天保6

各代の歿年から上記のように並べてみました。宝永二年歿の方之から戒名には院号が入っています。妹尾戸川家に出仕する武士であったようです。惟孝室は浅尾藩森川信忠次女となっています。

空白の時代があるのは、佐藤S氏の家が後に再興したからで、「丸に剣酢漿草」は宇喜多家から拝領した紋だそうです。
江戸時代の古い墓碑には笠の部分に「十六枚菊」の紋が入れてあります。現在では皇室の御紋章になっていますが、江戸時代はあまり気にされずに庶民にも使われていたのでしょうか。
三郎兵衛家は地元でシロサトウと称されるようですが、そのシロサトウの屋敷に祀られたお稲荷さんの屋根瓦に「十六枚菊」の紋が入れてありますので、紋佐藤とシロサトウ(三郎兵衛家)は同じ株になるそうです。

紋佐藤の経歴がS氏の累代墓に彫られています。
「佐藤左兵衛輔好宗は室町幕府十五代将軍足利義昭に仕えていました。織田信長に従わない義昭に数度諫言しましたが無視され、妻子従者を引き連れて退きました。作州、その後児島の常山城主上月隆徳に仕えましたが、子祐金が五才の時に籠城となり討死しました。この時、譜代の家臣岡村軍次は祐金を伴って芸州に退きました。その後、祐金は成人し文禄年中に妹尾村中島に帰って居を定めました。関ヶ原合戦では戸川逵安に従い祐金はその重臣となりました」

S氏の解説によれば、
祐金の長男は源左衛門吉政。この子孫の墓は妹尾の中島にあって、S氏の家がお祀りされているそうですが、源左衛門吉政という俗名を彫った墓碑は確認出来ません。最も古いのは元禄の年号ですが、二文字戒名(浄現)の自然石です。
祐金次男は太郎兵衛信邦、この子孫は田中屋という屋号です。
三男が九兵衛信義、この子孫が紋佐藤だそうです。
四男が小七郎茂富、これは御津郡建部町三明寺に移住、三明寺には現在も多くの佐藤姓があります。また、その分派という家が同町土師方にもあります。土師方の佐藤家に伝えられた文書に、

先祖書
備中国都宇郡瀬尾村佐藤祐金の子息が四人あり、惣領源右衛門、太郎兵衛、九兵衛、小七郎と申します。小七郎は浪人して美作国三明寺に住みました。家紋は丸の内三つ星、幕の紋は左巻三巴、氏は藤原と伝えています。貴家はこの小七郎子孫に間違いありません
貞享五年*月*日
備中瀬尾住人佐藤太郎兵衛子孫 佐藤助太夫
   同国同村佐藤九兵衛子孫 佐藤半十郎

というものがあります。つまり、本家筋の子孫が分家の子孫に対してその出目を証明した書類のようですが、他にも幕末や明治の頃に発行された同様の証書があり、それらには「本国安芸」とあります。

紋佐藤の墓にある九兵衛信義は享保十三(1728)年に死去していますから、文禄年中(1592〜)に妹尾村中島に居を定めた祐金の三男と同一人物ではなさそうです。常山落城は天正三(1575)年ですから、祐金は二十才そこそこで妹尾に来たことがわかります。
佐藤三郎兵衛家の六代は正徳元(1711)年に亡くなっていて**院宗淳信士となっています。一代を三十年として計算すると初代宗観は文禄より六十年も昔に亡くなっていることになりますし、やはりS氏が紋佐藤株といわれる所司家(本姓佐藤)の墓地にも天文二十(1551)年という墓誌もあり、祐金が妹尾に来る以前から佐藤一族は妹尾に定住していたと考えられます。

左兵衛輔好宗という人は郷里を出て上京、足利幕府に就職したのではないでしょうか。その子祐金が郷里の親戚を頼って戻ってきたと考えるのが説明しやすいように思います。


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