田部家
東北条郡下高倉村





「玉野屋親類記」に津山西新町妹尾甚兵衛(法名宗寿)の次男が下高倉村大黒目の田辺猪右衛門の養子になったと書かれています。また、宗寿の長男の子孫である津山市一宮妹尾家の過去帳には、
「宝暦13年11月26日 ○○秋白 高倉多左衛門」
という記録が出てきますので、果たして津山市下高倉に大黒目(オオクロメ)という地名があるかどうか調べてみましたら、大黒馬(オオクロメ)というところが確かにあり、付近に田部(タナベでなくタベ)姓が何軒かあることも判りましたので、墓碑を確認に行きました。そうすると、
「宝暦13年11月26日 ○○秀白童子 徳三郎 多左衛門」
と彫られた子どもの墓が建てられていておどろきました。

多左衛門正之――伊右衛門正雄――+――徳三郎
安永2     安永3     |
                +――・・・

正之、正雄はそれぞれ夫婦墓になっていて、他に「志計尾嶋氏安永6年」という墓碑もありました。
伊右衛門正雄の戒名には「田部院・・・」と、姓を院号にしてありましたが、こういう例を他のいくつかの家でも見ています。
江戸時代には庶民は公には苗字を名乗れなかったと云いますが、こういう墓碑をみるたびに、お上から禁じられて押さえつけられることが返って苗字を遺そうという努力、エネルギーに代わっていったのではないかと思います。従って、明治維新になって適当に苗字を付けてもらったとか、創ったという家は本当に数少ないのではないかと思います。


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