妹尾家・舛屋
西北条郡津山西新町
始祖は源平の昔に三備(備前、備中、備後)を治めた平家の武将妹尾太郎兼康と云われます。兼康の次子に次郎(又左衛門)兼吉(治承元年生)という人が居て、父と兄が板倉宿で討死したあと、家臣の陶山氏によって、備中門田村(総社市門田)の善蔵方の匿われました。その後、美作国大庭郡古見村(真庭郡落合町古見)に居た旧家臣に招かれて移住、それから鎌倉幕府北条氏に仕えています。兼吉の長男藤太兼高の子孫に與右衛門兼輝という人がいて、この人は戦国末期に宇喜多秀家に仕え、宇喜多家の改易後は勝南郡木知ヶ原村(久米郡柵原町吉ヶ原)に移住しました。兼輝の孫新左衛門兼昌は津山城下に移住して商家となります。舛屋(ますや)という屋号から、測量器などを扱っていたのかも知れません。なお、現在の古見にも吉ヶ原にも妹尾姓の家が何軒かあるようです。
一族の墓碑のほとんどは津山市上之町日蓮宗本蓮寺にありますが、同寺には、妹尾平兵衛、濱野屋善十郎、舛屋甚兵衛、三名の発願主の名が彫られている安永の頃の供養塔もあり、寺の創建には妹尾家と濱野屋(太田原姓)が特に貢献していますので、両家の墓地はこの寺境内墓地の一番良い場所をほとんど占拠しています。
一族の多くは「木瓜紋」を使っていますが、勘助兼友夫婦の墓碑には「左三巴」、その父甚兵衛某の墓碑にも「右三巴」が彫られていますので、もとは「三巴」が家紋であったのではないかと思っています。
太郎兼康――+――小太郎宗康→? 寿永3 | 寿永3 | +――又左衛門兼吉――+――藤太兼高・・・與右衛門兼輝 | +――又二郎氏康
系図によると、兼高から兼輝までの間に、兼近、兼譽、兼久、兼孝、兼好、兼則、兼訓の名が書いてあります。単純計算で行くと一世代が四十数年となり何代か欠落があるようです。
舛屋 與右衛門兼輝――新兵衛兼宗――新左衛門兼昌――+――治郎兵衛兼宗 ――甚兵衛兼恒――+――治郎兵衛兼近 寛永15 寛文13 | 延宝5 寛延2 | 室江田氏 | 室下山氏 室戸川氏 | | +――甚兵衛兼継 +――治郎右衛門兼盛 | | +――甚兵衛某 ――+ 宝暦6 | 室後藤氏 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――女 | 倉地国弘妻 | +――甚兵衛 ――+――甚兵衛 ――+――女 | 天明6 | 文化12 | 玉屋権兵衛妻 | 室苅田氏 | 室 | | | +――長吉 +――徳三郎 +――女 | 天保3 | 田部家の養子 | 永田善述妻 | | | +――女 +――市三郎 +――らく | 浅川屋嫁 | 鳥取屋の養子 | 山名文蔵妻 | | | +――平吉 ――佐吉 ――+――岩吉 +――勘助兼友 +――清右衛門 | 大正3 | 明治11 | | 室 室武本氏 | | | +――利太郎 ――+――長之助 ――+ +――孫市 +――女 昭和11 | 大正7 | | 高松屋嗣 美土路信宝妻 室下山氏 | 室 | | | | +――惣兵衛兼福 +――精一 | 大正8 | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――太郎 ――+――昶 | 平成16 | | 室 | 室安東氏 | | +――敏男 +――理子 平成11 大野家嫁 室安井氏
兼昌妻の実家久米屋は岡山町の大年寄、藩の札元などを勤めていた家です。兼恒妻の実家戸川氏は下弓削村で大庄屋を勤めていたそうです。甚兵衛兼恒の嗣子は兼継だったようですが、兼継が三十一歳で死去したために、その遺児嘉平治は叔父甚兵衛某の子として育てられたようです。「玉野や親類記」には、嘉平治が勘助兼友らの末弟と記されていました。この間違いを見つけることが出来たのは、惣兵衛兼福の子孫の元にある家系図のおかげでした。この家の墓碑には一貫して「平」の文字が彫り込まれています。
甚兵衛の子孫は後に家産を傾け、作州一宮(中山神社)の神職を頼って一宮村に移住します。その後、家勢は挽回していますが、明治の末に上之町本蓮寺の先祖墓を一宮に集団移転しています。墓碑の引っ越しというのも時々聞きますが、過去帳や位牌の散逸などとは比較にならないほど先祖の調査を難しくすることがあります。
治郎右衛門兼盛は備後国鞆津で高松屋を称していたそうです(延宝四歿)。
治郎兵衛兼近は分家して高松屋を称しています。
治郎兵衛兼近――+――平兵衛友親 ――+――平兵衛兼光 ――+――平左衛門兼尚――? 享保14 | 寛政12 1718 | 寛政3 1748 | 天保91774 室 | 室 | 室 | 室赤堀氏離縁1784 | | | 室牧山氏 +――忠右衛門兼直 +――もと 1756 | 天保8 | 大谷常暇妻 +――女 | 大谷益友妻 +==ちか1763 赤堀氏 大谷常暇妻
兼継のあとは下記のようになります。「玉野屋親類記」には「嘉平治 長治先祖」という記載が繰り返されていますが、これは嘉平治の孫娘登井が津山藩儒官大村誠意の養女となって蘭学者箕作阮甫の妻となったことを記録に遺したいためではないかと思います。阮甫の妻が妹尾登井(又は豊子)であるということは、あまり知られていません。
池田和平は池田辰二に、「箕作との関係は池田よりも戸川が濃い」と云っていたそうです。これは、戸川吉仁妻とは二いとこ(又いとこ)になる妹尾長治の娘が阮甫の妻、吉仁の子で中之町池田家を嗣いだ丈右衛門の妻のいとこが阮甫の娘に迎えられた婿養子ということを一言で云おうとしたものと思います。
現代流では、二いとこの子が何処の娘と結婚しようが無関心だと思いますが、一昔、二昔前は、これくらいの距離は充分親戚付き合いの圏内で、冠婚葬祭などの際に知らなければ恥をかくということもあったようです。こういう意識は地域が都市化して行くに連れて薄らいでいくようです。
甚兵衛兼継――嘉平治兼興――+――長治兼親 ――+――嘉平治兼朝――+==松右衛門兼秀 享保10 安永7 | 文政12 | 明治8 | 赤松氏 室岩田氏 | 室土居氏 | 室赤松氏 | 明治32 | | | +――女 +――庄助 +――磯吉兼賢――+――久米之助兼武 | 三船藤四郎妻 | 土居家嗣 明治37 | 明治33 | | 室高橋氏 | 室清水氏 +――キヨ? +――勇吉 | 後藤勝利妻 | 江原家嗣 +――美禰 ――+ | | 池田森治郎妻 | +――利器造 | | | +――彌生 | | | 川名竹三郎妻 | +――登井 | | 箕作阮甫妻 +――要平兼文 | 昭和15 | | +――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――剛 | | | 妹尾 +――制 ==昭吾 ――+――聡子 | 池田氏 福原氏 | | 昭和54 室知力士娘 | | 室 +――昭孝 ――明里 | | 室田中氏 | | +――知力士 +――暢子 | 池田姓 | +――女
池田
知力士 ――+――實豊 平成5 | 平成14 室 | 室 | +――譲治 | 昭和32 | +――千鶴子 | 制の養女 |
兼友夫婦の墓碑は兼友と先妻安東氏、後妻石田氏、三名の合祀となっていて、墓前には左三巴紋入りの近代に加工された石が置かれています。
安東氏は戸川吉仁妻となった女子を遺して早世しています。この兼友夫婦の墓碑の並びに安政元年に三十六歳で亡くなった妹尾寿吉、妻キサ(明治十九年歿)の夫婦墓があり、今津國助建之とあります。この今津氏はこちらの今津氏と何か関係があると思います。
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勘助兼友――+――美禰 享和3 | 戸川吉仁妻 室安東氏 | 室石田氏 +――多美 | 助右衛門妻 | +――勢以 | 満田間兵蔵妻 | +==定吉 ――+――多津 井上氏 | 水島代治郎妻 | 室兼友娘 +――寅吉 ―― | | +――女 鉄砲町某妻
惣兵衛兼福の子孫は下押入村建石(津山市)に移住しています。
「玉野屋親類記」には「立石」と書いてありますが、「建石」が正しいようです。親類記に依れば、ここには玉野屋の分家もあったようです。
惣兵衛兼福――+――百助兼政 寛政2 | 万延1 室藤田氏 | 室 室朝比奈氏 | 室 | +――女 | 戸川嘉兵衛妻 | +――松之助 安永6
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戸川 妹尾 嘉兵衛 ==百助兼政==周蔵兼利==峯吉兼英――+――久満 文化5 妹尾氏 石井氏 大谷氏 | 安黒家嫁後分家 室妹尾氏 万延1 明治13 明治8 | 室 室兼政娘 室兼利娘 +==平治郎 ==暉一 == 一二 ――始 室 | 村瀬氏 山根氏 戸田氏 平成17 | 大正9 大正7 平成9 室 | 室兼英娘 室寺岡氏 室 | 室福井氏 | +――駒吉 明治3
周蔵兼利は親類記にも記載がありますが、「ダント石井」とあって、はじめは一体何のことかと悩みました。いまの真庭郡落合町内に旦土(だんと)という所があります。地名に親しむことも家系図調査にはたいせつです。
兼吉の次子又二郎氏康の子孫も戦国末期に宇喜多家に仕え、宇喜多家改易後、津山藩森家や松平家に出仕したようです。
池田 又二郎氏康――善次郎元康・・・治郎兵衛友康――+――嘉右衛門康春――安左衛門 | | +――十助兼孝――十助康友――縫之助兼吉――新九郎吉康――+ | | | | | 米村 | +――四兵衛兼氏 | | | | | +――五郎兵衛康永 | | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――藤十郎家春――彦作康吉――助八郎家門――十蔵保信――幸助元信
鎌倉時代から戦国末期までの系譜は不明です。友康は宇喜多家、嘉右衛門は森忠政に仕え、友春は森家の改易後に京都鷹司家に出仕したそうです。
五郎兵衛康永――五郎兵衛信康――治郎左衛門信常――五郎兵衛吉兼――治郎左衛門康信――五郎兵衛家信――+ | | +―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――+ | +――新五郎信常――市内信重
この家も森家に仕え、市内信重は松平越後守に鉄砲役で再仕官しています。
後藤家系図に、菊池士郎妻の姉妹は順に角屋庄助室、妹尾市内室、菊池士郎室、池田丈右衛門室、妹尾順作室と書いてあります。更に、妹尾市内室、妹尾淳作室の箇所に本覚寺とありますが、本覚寺は現在廃寺になっていて、檀家の世話は津山市上之町大信寺、西寺町泰安寺へと引き継がれています(共に浄土宗)。本覚寺の位置は泰安寺の南ですが、本堂の裏に妹尾姓の墓地があり、先祖累代の墓という石塔横と磨耗した一つの墓碑に、
「○○諦了信士、妹尾市内、宝暦九年歿」
という記録を見付けました。
丈右衛門妻の姉が嫁いだ市内とは時代がずれるようですが、昔は通称をたいせつに襲名したようですので、この妹尾家が上記の系図の家ではないかと思います。
この家の墓地には他に、
○○鉄堂信士、妹尾氏、天明2
○○院戒譽助給信士、天明5、妹尾文蔵
がありますが、これから昭和の故人まで時代をずっと飛んでいます。
新しい累代墓に彫られた家紋は「丸に三ツ割蔦」でした。
同寺の無縁墓を集めたところにも妹尾姓の墓碑が混じっているのも確認されましたが、どうやら古い墓碑を整理している間に落ちこぼれたものがあるようです。
最近、千光寺の裏に下記のような妹尾家を見つけました。
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藤蔵兼忠――+――英次郎経時 明治29 | 昭和10 室山本氏 | 室 | +――真次郎 ――+――海太郎 | 明治39 | 明治43 | 室 | 室間野氏 | | +――男 +――藤吉 ――+――邦彦 ――+―― | 昭和31 | 平成1 | | 室 | 室 | +――男 室瓜生氏 | | | +――俊幸 +――孝英 | 昭和16 昭和23 +――経猛 明治37
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